2023.10.01 更新
第163回 「こんにちは母さん」
前々号、前号とバージョンアップした新生ブログの解説をしてきて、ご理解いただけたと思うので、今号から従来のスタイルに戻る。
この数年、山田洋次監督と吉永小百合主演コンビの「母べぇ」など数本はどうもスッキリせず、一言で言えば凡作の感が強かったので、観るか観まいか迷ったが、この酷暑の中、映画館で涼むのも良いか程度で入館した。果たして2時間後、心身とも久しぶりの涼感に浸った。
それは、高齢者をめぐる生々しい現実と、老女(吉永小百合)が老男(寺尾聡)に恋するという新しい切り口だったからだ。老男が老女に恋するのはありがちだが、その逆は少ないというか、表に出ないからだとも言う。何でもこの設定は山田監督の実体験によると。
その事態に息子(大泉洋)は「そんなのありえないダメ」と頭を抱えるが、孫(永野芽郁)は「年取って恋して何が悪い!」と見事な反論。監督の実体験と言ったが、母親は父親が亡くなっても良妻賢母で子供たちを育てあげるもの、他の男と再婚するなんて子供心にも許せないという気持ちがあったと、監督は述懐している。言われてみれば、長く女性は一人の男性を愛し尽くすものと、この国では決まっていた。そこが見事に崩れた。
さて、この映画で私が最高のシーンと思うのは、隅田川に架かる橋上での二人の男のすれ違い。吉永からの思いを感じつつ、自分も吉永への思いはあるが、故郷へ帰らざるを得ない寺尾が、車の助手席から見つけた、空き缶収集で何とか生きている、イノと呼ばれる老男(田中泯)の姿。イノは78年前の東京大空襲の被災者であり、その後の人生は、国や行政不信で生活保護も拒む男だった。寺尾は車から身を乗り出して「イノさん、長生きしろ~」と叫ぶ。しかし、一杯の空き缶を積んだ自転車をフラフラと引くイノにその声が聞こえるはずがない。二人が顔を会わせないこの交錯シーンは、二人の今と、これからの生き様を観客に想像さすに余りある名場面。
ちなみに、吉永小百合は1945年3月13日生まれ、田中泯なぞは、同年3月10日生まれ、いずれも東京生の3日違いの現在78歳同士。現実の大空襲の混乱下、出生日と届日が正確なのか、調べるすべはない。そんな過酷な中での生に、いつまでも美しい吉永小百合、顔のしわに味のある田中泯。
ついでにもう一つ、エピソード。
私の知人で、伏見に住む元京都市会議員が50数年前、早稲田大学当時、すでに女優だった「吉永小百合と一緒にお昼ご飯を食べた」といつもの自慢話。初めて聞く人は「エエッ!」、何回も聞いた人は「また、この話」と閉口気味。この話は嘘ではないが客観状況からは大言壮語。つまり、広い学生食堂の長テーブルで、空いていた目の前の空席に座ったのが吉永小百合。彼は食べるより、目の前の吉永小百合風の女性をチラチラ見て、本人と確信。
結果、その時も50数年経た今も、「それでお前は何喰ってたんか?それより吉永小百合は何喰ってたんか?」の問いに、「興奮していて何にも覚えていない」と。ああ~、それでもこれと同じような話は、同じ同窓のタモリ氏もTVで喋っていた。何か食堂のおばさんに、「吉永小百合の食べた皿を教えて」、そして、それをペロペロ舐めたと。(さすがタレントらしい発言だが)
さて本来のもう一つの名場面は、巷の現実としてグッと迫ってくる。
失恋した吉永がヤケ酒で大泉に吐く「老いて死ぬのが怖いんじゃない。足腰弱って他人の世話で生きる自分を想像すると生きる希望がなくなる。それが怖い」と。
自らも90歳超えた山田洋次監督の映画作りも終焉が近づいている。今回の新しいテーマと言い、この吉永のセリフに込めた山田監督の思い…、これも現実として避けて通れないようだ。
この数年、山田洋次監督と吉永小百合主演コンビの「母べぇ」など数本はどうもスッキリせず、一言で言えば凡作の感が強かったので、観るか観まいか迷ったが、この酷暑の中、映画館で涼むのも良いか程度で入館した。果たして2時間後、心身とも久しぶりの涼感に浸った。
それは、高齢者をめぐる生々しい現実と、老女(吉永小百合)が老男(寺尾聡)に恋するという新しい切り口だったからだ。老男が老女に恋するのはありがちだが、その逆は少ないというか、表に出ないからだとも言う。何でもこの設定は山田監督の実体験によると。
その事態に息子(大泉洋)は「そんなのありえないダメ」と頭を抱えるが、孫(永野芽郁)は「年取って恋して何が悪い!」と見事な反論。監督の実体験と言ったが、母親は父親が亡くなっても良妻賢母で子供たちを育てあげるもの、他の男と再婚するなんて子供心にも許せないという気持ちがあったと、監督は述懐している。言われてみれば、長く女性は一人の男性を愛し尽くすものと、この国では決まっていた。そこが見事に崩れた。
さて、この映画で私が最高のシーンと思うのは、隅田川に架かる橋上での二人の男のすれ違い。吉永からの思いを感じつつ、自分も吉永への思いはあるが、故郷へ帰らざるを得ない寺尾が、車の助手席から見つけた、空き缶収集で何とか生きている、イノと呼ばれる老男(田中泯)の姿。イノは78年前の東京大空襲の被災者であり、その後の人生は、国や行政不信で生活保護も拒む男だった。寺尾は車から身を乗り出して「イノさん、長生きしろ~」と叫ぶ。しかし、一杯の空き缶を積んだ自転車をフラフラと引くイノにその声が聞こえるはずがない。二人が顔を会わせないこの交錯シーンは、二人の今と、これからの生き様を観客に想像さすに余りある名場面。
ちなみに、吉永小百合は1945年3月13日生まれ、田中泯なぞは、同年3月10日生まれ、いずれも東京生の3日違いの現在78歳同士。現実の大空襲の混乱下、出生日と届日が正確なのか、調べるすべはない。そんな過酷な中での生に、いつまでも美しい吉永小百合、顔のしわに味のある田中泯。
ついでにもう一つ、エピソード。
私の知人で、伏見に住む元京都市会議員が50数年前、早稲田大学当時、すでに女優だった「吉永小百合と一緒にお昼ご飯を食べた」といつもの自慢話。初めて聞く人は「エエッ!」、何回も聞いた人は「また、この話」と閉口気味。この話は嘘ではないが客観状況からは大言壮語。つまり、広い学生食堂の長テーブルで、空いていた目の前の空席に座ったのが吉永小百合。彼は食べるより、目の前の吉永小百合風の女性をチラチラ見て、本人と確信。
結果、その時も50数年経た今も、「それでお前は何喰ってたんか?それより吉永小百合は何喰ってたんか?」の問いに、「興奮していて何にも覚えていない」と。ああ~、それでもこれと同じような話は、同じ同窓のタモリ氏もTVで喋っていた。何か食堂のおばさんに、「吉永小百合の食べた皿を教えて」、そして、それをペロペロ舐めたと。(さすがタレントらしい発言だが)
さて本来のもう一つの名場面は、巷の現実としてグッと迫ってくる。
失恋した吉永がヤケ酒で大泉に吐く「老いて死ぬのが怖いんじゃない。足腰弱って他人の世話で生きる自分を想像すると生きる希望がなくなる。それが怖い」と。
自らも90歳超えた山田洋次監督の映画作りも終焉が近づいている。今回の新しいテーマと言い、この吉永のセリフに込めた山田監督の思い…、これも現実として避けて通れないようだ。
2023.09.15 更新
第162回 上昇中
飛行機は離陸時にそれなりにパワーアップをして、どんな風が吹いていても、確実に飛び立ち上昇し早く安定飛行に入れるよう、パイロットは最大限の緊張を強いられる。そして乗客が、離れ行く空港や陸地を窓から下を眺めている間、パイロットはコックピットで様々な機器の点検をする。
本ブログもしかり。
まず、本号から「特設ページ」を開設した。これらが上昇から安定飛行へ進めるカギだから。
それでは前号の「自力飛行」への声から。
「何故、20年間も仕事と介護の両立やれたのかの力の源泉は?」とマジに突っ込む声、「広告集めたら」と営業感覚の声、「夕方の読売TVten毎(水)『若一調査隊』の様な、富田さんから見た各地の色んなテーマの『お勧め』を紹介して欲しい。それが、異色の旅行社にいた証でしょう」とチョット荷が重い注文もある。
さて飛行機は、食事など機内サービスが良いとかの評価基準はあるが、やっぱりパイロットの腕で安全安心な空の旅が約束されることでしょう。途中の乱気流にも動じない操縦が。
そして何より、燃料がタップリないと確実に目的地にはたどりつけないですよね。
グライダーじゃないですから。ねえ~皆さん。
本ブログもしかり。
まず、本号から「特設ページ」を開設した。これらが上昇から安定飛行へ進めるカギだから。
それでは前号の「自力飛行」への声から。
「何故、20年間も仕事と介護の両立やれたのかの力の源泉は?」とマジに突っ込む声、「広告集めたら」と営業感覚の声、「夕方の読売TVten毎(水)『若一調査隊』の様な、富田さんから見た各地の色んなテーマの『お勧め』を紹介して欲しい。それが、異色の旅行社にいた証でしょう」とチョット荷が重い注文もある。
それでは、今回から中身を入れた特設ページの解説です。
1 腑抜けNO会は、最近の企画で好評だった「花」企画模様のニュースです。
2 日ベト京都は、在京都ベトナム青年学生会主催のBBQ企画に呼ばれたものです。
長く京都に住む私などが、彼らから教わった京都の避暑地です。
8月下旬には、叡山電車主催の「地ビール祭り」でも再訪。今夏新発見の場でした。
と、まずは最近のニュース転載です。次号からこの二つのグループの紹介をしていきます。
さて飛行機は、食事など機内サービスが良いとかの評価基準はあるが、やっぱりパイロットの腕で安全安心な空の旅が約束されることでしょう。途中の乱気流にも動じない操縦が。
そして何より、燃料がタップリないと確実に目的地にはたどりつけないですよね。
グライダーじゃないですから。ねえ~皆さん。
2023.09.01 更新
第161回 自立記念日
「独立」と「自立」を辞書で調べると、今回の私の事例は「自立」と思われる。
22年前(2001年)5月スタートしたウェブマガジン「福祉広場」の連載物の一つとして「千代野ノート」は産声を上げた。
そのオーナーの井上吉郎氏の昨夏逝去に伴い前号(8/15号)をもってウェブマガジン「福祉広場」は閉鎖された。
「どうする千代野ノート」だが、私は書き続けます。
それは、今ブログをベースに上梓した「千代野ノート」出版パーティー(2016年4月29日)の私のあいさつでも明らかにしています。
「妻が倒れた1996年から男性介護と仕事との両立と20年間の希有な体験を紹介してきました。それは単に子ども、孫たちだけでなく、広く世に問うてきましたし、今後も書き続ける『大遺言』のつもりです」。
そう、遺言ですので、私が生きている限りずっと書き続けます。
妻の急逝後は「伴侶を失った人々の会・腑抜け NO 会」をやっています。これは20年間の男性介護の第二ステージとも言うべきものです。
以上、本号からバージョンアップした「一人になった千代野ノート」です。
さて、冒頭の「自立」には、当然「自由」と「自己責任」が伴います。
まず「自由」では、「特設ページ」を作りました。
本ブログ執筆の他の主たる社会活動である「腑抜け NO 会」と「日本ベトナム友好協会京都支部」で、この2本はブログ同様、月2回更新できます。
「自己責任」では、「告知版」2本です。
生業にしたい「ムービー軌跡」と、厚かましくも本ブログ始め私の社会活動全般への支援としての「千代野基金」です。
さあ〜、72歳の夏、自立した「ひとりになった千代野ノート」は、自分の翼でテイクオフします。上手く飛んでいけるか、墜落するか・・・。
22年前(2001年)5月スタートしたウェブマガジン「福祉広場」の連載物の一つとして「千代野ノート」は産声を上げた。
そのオーナーの井上吉郎氏の昨夏逝去に伴い前号(8/15号)をもってウェブマガジン「福祉広場」は閉鎖された。
「どうする千代野ノート」だが、私は書き続けます。
それは、今ブログをベースに上梓した「千代野ノート」出版パーティー(2016年4月29日)の私のあいさつでも明らかにしています。
「妻が倒れた1996年から男性介護と仕事との両立と20年間の希有な体験を紹介してきました。それは単に子ども、孫たちだけでなく、広く世に問うてきましたし、今後も書き続ける『大遺言』のつもりです」。
そう、遺言ですので、私が生きている限りずっと書き続けます。
妻の急逝後は「伴侶を失った人々の会・腑抜け NO 会」をやっています。これは20年間の男性介護の第二ステージとも言うべきものです。
以上、本号からバージョンアップした「一人になった千代野ノート」です。
さて、冒頭の「自立」には、当然「自由」と「自己責任」が伴います。
まず「自由」では、「特設ページ」を作りました。
本ブログ執筆の他の主たる社会活動である「腑抜け NO 会」と「日本ベトナム友好協会京都支部」で、この2本はブログ同様、月2回更新できます。
「自己責任」では、「告知版」2本です。
生業にしたい「ムービー軌跡」と、厚かましくも本ブログ始め私の社会活動全般への支援としての「千代野基金」です。
さあ〜、72歳の夏、自立した「ひとりになった千代野ノート」は、自分の翼でテイクオフします。上手く飛んでいけるか、墜落するか・・・。

