2024.09.17 更新
第185回 高石ともやさん
酷暑の中、表通り(九条通り)の東寺南門をくぐって、石段に腰掛け下駄を脱ぐ。
南門の大屋根で昼間ずっと日陰になるし、石段がひんやりして素足に心地よい。右斜めに五重塔、目の前に壮大な金堂、周りは大きな樹木が覆い、足元は玉砂利。
そうなると口から出るのは、高石ともや作詞作曲の名曲「街」。
この歌詞の不思議さわかりますか? どこにも「京都」が入っていない。それでも1970年代の京都の良き街並みと自然を見事に歌い上げ、誰でもこの歌の舞台は京都を思うのです。だから名曲なのです。
高石ともやさん。
出会いは1980年代後半だったろうか。フォークーソングシンガソングライターに加えトライアスリート。この二つの要素を活かす、「高石ともやさんとジョギングコンサート」の話を、前々職の広告会社の時、どこかのクライアントが持ち込んできた。「富田に相談すれば何とかするだろう」って感じだったとか。ともやさんと野外を一緒に走り、その後一緒に歌う。そのアットホームさで、このスタイルは受け、私の周りで増えだした。
しかし何と言っても、ともやさんと親しくなったのは、1991年雲仙普賢岳支援企画の数々。即座にトライアスリートの彼は、数人の仲間と数日かけて、京都~雲仙まで自転車で、途中の街々でチャリティコンサートを続け、その募金を被災地に届けた。
そして翌年夏、京都市役所前広場で、支援のお返しとして、島原大太鼓のメンバーがともやさんと共演した。迎える京都は函谷鉾囃子方のコンチキチン。時は7月15日夕刻「宵々山いきいき広場コンサート」。ついには、その秋の「雲仙普賢岳チャリティマラソン」にともやさんはじめ京都のメンバーが参加、島原大太鼓メンバーとも再会した。特にこのマラソンは笹川財団の支援もあり谷口浩美、ロザ・モタ、フランク・ショーターと言う往年の五輪ランナーも参加、地元長崎TVで放映された。
…と、ここまで詳しく書けるのは、このすべての企画に、私が事務局に入っていたからだ。
そして彼と出会い、「走る」ことを知り、「ホノルルマラソン」(小欄一部67回~75回)
へと繋がっていった。
南門の大屋根で昼間ずっと日陰になるし、石段がひんやりして素足に心地よい。右斜めに五重塔、目の前に壮大な金堂、周りは大きな樹木が覆い、足元は玉砂利。
そうなると口から出るのは、高石ともや作詞作曲の名曲「街」。
この歌詞の不思議さわかりますか? どこにも「京都」が入っていない。それでも1970年代の京都の良き街並みと自然を見事に歌い上げ、誰でもこの歌の舞台は京都を思うのです。だから名曲なのです。
高石ともやさん。
出会いは1980年代後半だったろうか。フォークーソングシンガソングライターに加えトライアスリート。この二つの要素を活かす、「高石ともやさんとジョギングコンサート」の話を、前々職の広告会社の時、どこかのクライアントが持ち込んできた。「富田に相談すれば何とかするだろう」って感じだったとか。ともやさんと野外を一緒に走り、その後一緒に歌う。そのアットホームさで、このスタイルは受け、私の周りで増えだした。
しかし何と言っても、ともやさんと親しくなったのは、1991年雲仙普賢岳支援企画の数々。即座にトライアスリートの彼は、数人の仲間と数日かけて、京都~雲仙まで自転車で、途中の街々でチャリティコンサートを続け、その募金を被災地に届けた。
そして翌年夏、京都市役所前広場で、支援のお返しとして、島原大太鼓のメンバーがともやさんと共演した。迎える京都は函谷鉾囃子方のコンチキチン。時は7月15日夕刻「宵々山いきいき広場コンサート」。ついには、その秋の「雲仙普賢岳チャリティマラソン」にともやさんはじめ京都のメンバーが参加、島原大太鼓メンバーとも再会した。特にこのマラソンは笹川財団の支援もあり谷口浩美、ロザ・モタ、フランク・ショーターと言う往年の五輪ランナーも参加、地元長崎TVで放映された。
…と、ここまで詳しく書けるのは、このすべての企画に、私が事務局に入っていたからだ。
そして彼と出会い、「走る」ことを知り、「ホノルルマラソン」(小欄一部67回~75回)
へと繋がっていった。

