2024.11.01 更新
第188回 片手不自由でも寿司は握れる

※写真をクリックすると、大きな写真が開きます。

 前号に続き新聞記事で恐縮です。A4サイで10月中旬と大きく掲載された。
全文は読めないでしょうし、ダイジェストで紹介します。

 東寺南門から西へ歩10数分の羅城門近くでたまに行っていた寿司居酒屋。
単なる居酒屋でなく、店主は寿司が握れるのが気に入っていた。ところがコロナ禍で客足は遠のく中での追い打ち。一昨年(22年)この店主が脳梗塞で倒れた。
当然店は無期限閉店。本人も自らの体調共々店をどうするか悩みに悩んで、復帰を決意。
8ヶ月後に店を再開するも、寿司が握れないだけでなく、他のメニュー、調理もままならぬ状態。それでも彼も頑張りに私が出来ることはと考え、貧しいので客として足繁く通えないので、彼の奮闘を地域に人などに広く知ってもらおうと地元紙に持ち掛け、OKと相成った訳。

 今年に入って「能登支援」で苦しむ人々、そして地震と豪雨の二重の困難を乗り越えようとする人々に多く接する中で、この京都、近隣地域でも困難に立ち向かう人に寄り添う形を作り上げる事に、すぐ反応できた。
2024.10.15 更新
第187回 北國新聞に参上

 記事読めるでしょうか?北國新聞「地鳴り」欄(読者の声)、掲載は10月8日。
 北國新聞。石川県の最有力紙で県下64%の占有率で30万部、二番手が20%で10万部。
ちなみに京都府下での京都新聞が30%で35万部。人口が違うので、見て欲しいのは占有率だ。ここへの京都からの声だ。

 前号に記したように、先月の現地入りは、べトナム人含む外国人被災者の実情知るためだったが、どうもその目的は果たせなかった。ならば日常の生の声として、石川県最有力紙を毎日読めば何とかなるだろう。つまり外国人含む石川の方々の動向をつかもう。そして思いは発展して、そこに今度は我々の声を届けよう。情報の受発信である。冒頭写真はその第一歩なのだ。購読紙は、石川から京都の郵便事情で2日かかる。実はこの紙面は8日当日、先月訪問した七尾の方から「富田さんの記事載ってる!」とメールで送られてきて、新聞現物は2日遅れの10日に確認した次第。

 7月中旬やっと再開通した金沢~輪島の自動車専用道路は、豪雨で再び分断した。
けれども我々の「京都からの声」は、石川の方々としっかり開通した。


二つの写真とも、クリックで拡大できます。

2024.10.01 更新
第186回 地域が切り捨てられるとは
 倒れたまま、傾いたまま、瓦礫のまま。いつまで…。
29年前「1・17」神戸の街でも、春~夏~秋と季節の変わり目では、瓦礫が少なくなっていく様は記録写真でも明らかだ。にもかかわらず。能登は8ヶ月経ても何故か手付かず、そのまま置き去りにされている実態。その違いは何か?結局、都市と過疎地への対応の違いとしか答えは見当たらない。
 在京都のベトナム人同行で、ベトナム人雇用研修施設に物資支援をした3月に続いて、今回9月は、7月に道路復旧した地震震源近くの奥能登・輪島、珠洲にも足を運んでの今回の実感だ。事実、自衛隊も去り、ボランティアもあまり見なくなり、能登はまもなく最初の冬を迎える。歩行困難な高齢者に、自力で物資を取りに来い、自力で住宅再建手続きをせよと言うのだろうか?

 石川県の農漁業、観光業など経済の下支えの外国人労働者、その最多はベトナム人それも技能実習生と統計が示している。過疎と高齢の地域では「外国人に助けられている」と話す雇用主も多い。外国人が参画する日本語学校や、地域のイベント・祭り通しての防災訓練などで、顔見知りが増えている七尾市、中能登町などもある。

 シビアな言い方すれば、今次の地震での恐怖、雇用先倒産、管理団体の不適切対応などで彼らが祖国に帰ってしまえば、石川県の産業、地域振興が成り立たなくなると言う事を考えないのだろうか?もっと言えば「外国人を置き去りにすれば、近い将来この国は、外国人・国際社会から逆に置き去り、相手にされない国になる」のがわからなのだろうか?
経済力一つとっても、いつまでもベトナム人が日本を魅力ある国に選ぶ理由は狭まっている。事実アジアの他国に彼らの眼は向き始めてる。開催是非はともかく、来年の大阪万博終了と同時に関西を拠点とし、北陸にも及ぶ経済圏は一気に冷えてくる。だから経済面だけでなく安心安全、人権が尊重される地域と彼らが魅力を感じる、共生社会作りが能登にも欠かせないと思うが。(9/15記)

 そして何と!1週間後に奥能登に再び…。
復旧再開通の奥能登までの道路も、損傷多く凸凹だけでなく蛇行が激しい。
左右には崖沿いの集落、崩れたままの民家。「ここで何か起こったらアウトだ」の不安が
ちょうど1週間後(9/21)に現実起こるとは…。
地震で内包されていた地質の危険が記録的大雨で一気に噴き出た格好だ。川の氾濫、崩壊民家の流木、やっと入れた仮設住宅も浸水。「避難」する場所がない。
再びの道路寸断で、支援物資は陸送では届くまい。水、電気加え食料など支援物資が来なければ、奥能登の孤立集落の人々はどうなるか…?!考えたくないが、餓死の言葉が浮かぶ。
再びの避難所のTVに映る、自民党総裁選、立民党代表選の候補者の綺麗な言葉、「地域の活性化。安全安心の日本を」…。この国は二つに分断されているようだ。
2024.09.17 更新
第185回 高石ともやさん
 酷暑の中、表通り(九条通り)の東寺南門をくぐって、石段に腰掛け下駄を脱ぐ。
南門の大屋根で昼間ずっと日陰になるし、石段がひんやりして素足に心地よい。右斜めに五重塔、目の前に壮大な金堂、周りは大きな樹木が覆い、足元は玉砂利。
 そうなると口から出るのは、高石ともや作詞作曲の名曲「街」。

 この歌詞の不思議さわかりますか? どこにも「京都」が入っていない。それでも1970年代の京都の良き街並みと自然を見事に歌い上げ、誰でもこの歌の舞台は京都を思うのです。だから名曲なのです。

 高石ともやさん。
出会いは1980年代後半だったろうか。フォークーソングシンガソングライターに加えトライアスリート。この二つの要素を活かす、「高石ともやさんとジョギングコンサート」の話を、前々職の広告会社の時、どこかのクライアントが持ち込んできた。「富田に相談すれば何とかするだろう」って感じだったとか。ともやさんと野外を一緒に走り、その後一緒に歌う。そのアットホームさで、このスタイルは受け、私の周りで増えだした。
 しかし何と言っても、ともやさんと親しくなったのは、1991年雲仙普賢岳支援企画の数々。即座にトライアスリートの彼は、数人の仲間と数日かけて、京都~雲仙まで自転車で、途中の街々でチャリティコンサートを続け、その募金を被災地に届けた。

京都での出発式。
手前が高石ともやさん、右手にマイク、左手を募金箱に入れるが私


 そして翌年夏、京都市役所前広場で、支援のお返しとして、島原大太鼓のメンバーがともやさんと共演した。迎える京都は函谷鉾囃子方のコンチキチン。時は7月15日夕刻「宵々山いきいき広場コンサート」。ついには、その秋の「雲仙普賢岳チャリティマラソン」にともやさんはじめ京都のメンバーが参加、島原大太鼓メンバーとも再会した。特にこのマラソンは笹川財団の支援もあり谷口浩美、ロザ・モタ、フランク・ショーターと言う往年の五輪ランナーも参加、地元長崎TVで放映された。


 …と、ここまで詳しく書けるのは、このすべての企画に、私が事務局に入っていたからだ。
そして彼と出会い、「走る」ことを知り、「ホノルルマラソン」(小欄一部67回~75回
へと繋がっていった。
2024.09.02 更新
第184回 続・パリ五輪
 7月中旬からの大相撲名古屋場所~パリ五輪~甲子園の高校野球と、暑い熱いスポーツの熱気が過ぎ去ったようだが、この機会に思い起こすこともある。
 私の出身高校は、創立120余年になるが甲子園に全く縁がない。
校舎・グラウンド全てを早稲田佐賀学園に意味不明で譲渡したのが2010年で、そのわずか7年後にはこの新設私立校は甲子園に出場したのである。同じグラウンドで練習していて甲子園無縁の120年とわずか7年で甲子園、この差な何なのかと愕然とする。
 
 それでも、この県立母校から唯一の五輪選手がいる。それも何と銀メダルだ。
重由美子。1965年生まれだから私より15歳後輩、1996年アトランタ五輪で日本初の470級ヨットで銀メダル。この96年夏は、妻が倒れて数ヶ月後で、病院を転院していた頃で、田舎の母親から妻の病状の見舞いに続けて、重さん銀メダルで沸く田舎の様子だった。単に出身高卒だけでなく、唐津市が生んだヒロイン、今のパブリックビューイング張りであったろう。続く2000年シドニー五輪も出場。しかし2018年病で53歳の若さで急逝。奇しくも今回のパリ五輪同種目で銀メダルの岡田奎樹さんは、重さん(唐津東高)の指導仰ぐため福岡から唐津西高へ、名称は佐賀県ヨットハーバー・玄海セーリングクラブと言い、当時の西高の傍の海で練習していた間柄。おまけだが、最新の唐津東高同窓会名簿を見ると、重さんの住所は、私の実家から歩いて5~6分の所だったのには更に驚いた。
 
 唐津の海で鍛えた、28年ぶりの師弟関係の同種目同メダル。
こうなると、73歳の老体も元気をもらう。前々号の「日べト特設ページ」に記載したように、琵琶湖遊泳も調子よかったので久しぶりに50mプールへ。(一部「千代野ノート」252回参照)数年前のコロナ騒動のさなか、近隣のプール(25ḿ)が閉鎖され、この2~3年プールはご無沙汰していた。

 さて出かけたのは、娘が今でも週1~2回勤務している、西京極・京都アクアリーナ。
西京極とは、冬の高校駅伝、女子駅伝の発着地点。一帯には武道館などもあり、京都のスポーツの聖地とも言えるゾーンで、公認なので、陸上・水泳とも日本・世界のメダリストたちの練習場でもある。
 そのプール、50m×10レーンで、1~5レーンは一般用。6~10レーンは中高校生クラブなどのセミプロ用。この1~5レーンも良くしたもので、手前の1レーンから順に初級の初級、初球の中級、初球の上級と、プールスタッフに言われずとも、阿吽の呼吸で仕訳けられている。つまりレーン毎、ほぼ同じスピードのスイマーが泳いでいる訳だ。
 16年ぶりの50m、やはり50ḿは長い。それでもゴールタッチして一息入れて数回往復。
気分だけはオリンピアード。ゴールして逆向いて電光掲示板見る真似事もしてみる。
さて、ビックリしたのは隣のプール。昔のシンクロナイズスイミング、2~3人の選手の演技にコーチのハンドマイクの厳しい声。それでもさほど驚かないが、まさにビックリは初めて見る高飛び込みの練習。10mと言うから5F建物から真っ逆さまの落ちる。TVで見ても怖いに、今、目の前で。この人たちには高所恐怖症って感覚ってないのかしら。上述の初級の初級スイマー達が泳ぐの止めて、プールサイドで俄然見つめて驚嘆の声しきり。
 
 73歳の16年ぶりの50mに喜んでいる場合でない。故郷の後輩たちの28年ぶりのヨットでの快挙。そして目の前の高飛び込みと、様々な年代の様々な水との挑戦があるもんだ。
「ムービー軌跡」
千代野基金

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