2025.01.15 更新
第193号 神戸から能登を見て
 年末年始、阪神淡路と能登の震災のYoutubeなどを数多く見ていた。そして被災体験から、関西人は「神戸の教訓を能登へ」とよく言う。
この1年、私も2回の能登現地入りでずっとその意識を持っていた。しかしこの「教訓」は正直よくわからない。
ならばと正月休館明けの4日、9時半開館時刻に合わせて、神戸・灘の「阪神淡路大震災記念・人と防災未来センター」(略称・震災記念館)に行ってきた。これまでも何度も訪れていた。それは目の前の展示から見える今年30年になる神戸の復興だけだったが、上述の頭の半分を能登に置くと、見え方が違うようだ。
 道路、通信、交通などの社会インフラ、水、ガス、食料などの生活インフラ、助け合い、優しさ癒しと言ったコミュティーの三分類にされようか。
 やはり、都会の復興は違う。1月17日震災から75日目、つまり春4月には神戸~京都間のJR東海道本線は再開し、私鉄全線も8月には、そして高速以外の国道幹線も夏には復旧した。これは目の前の記念館の記録と、30年前の私の記憶からも全くそうだ。関西の大動脈ライフライン復旧を県・国の総力戦がまざまざと蘇る。
 反して、9月の奥能登へのデコボコの国道だ、大体復旧工事している様子が見えない。
人も重機も見えない。静かに沈黙している破損の国道…。過疎は切り捨てられるのみ。比較することが無理なのかと絶望的になる。

 気を取り直して「人間のあたたかさ」のコーナーへ。あったあった。小欄一部(千代野ノート166回)私が単独山田洋次監督に直訴した「寅さんがを神戸に」の年表とロケ模様。
ぼやけて見にくいが、掲示の一番上の帽子と背中部分が渥美清さん、その下がロケ見物でごったがえの長田の人々、その下が指揮する監督。


 
 よく災害時「こんな時、文化的応援が役に立つか」と言われる。しかし結果は杞憂な事が多い。人は苦しい時もパンのみでは生きていけない。心の栄養が必要な事は実証されている。
それでも、毎日被災者の事ばかり考えてもいられない。ならばせめてもの、「阪神淡路」未曾有の都市型災害の1/17、「東日本」原発エネルギーを問うた3/11、そして「能登」は、元日と言う強烈な日付。年に一度でも良い、自らの頭で考え、言葉で伝え継ぐしかない。
2025.01.06 更新
第192回 太く短く、細く長く
 人間の生き様で使われる言葉だ。
さしもの今号は2025年新年号だが、更新が松の内明けで次の更新が15日だから短い運命。短いと言えば昨秋からの北國新聞購読がそうだった。昨年末で止めた。石川県断トツ有力紙、9月新聞社訪問時すぐに関連記事コピーが出てきたので、その後の外国人被災者の記事も期待した。しかし3ヶ月間毎日隅から隅まで目を凝らして読んだが、一回も載らず。
現地の支援機関は数回各新聞社へ情報発信していたが…。県内のもう一つの地元紙には載ったと言うのに。だから昨9月の豪雨災害時から一切外国人被災情報は得られなかった。それらの理由を付けて、あの時会った記者に一言添えて購読中止を通知した。その記者から返信はない。太く短い購読だった。

 翻って、11月下旬の朝日新聞全国版の「腑抜けNO会」記事。掲載日の夕方「秀ボンね、Rよ、わかるね?」私、訛りから九州だとはわかった。しかしRと言う姓は中学生同期はいるが、どうも声が違う。次にRのフルネームでやっとわかった。唐津の実家の隣家のRさん。9歳上。60年ぶり位だから声も忘れていた。その時は双方バタバタの最中で短時間のTEL、「Rさん朝日新聞取ってたの」と言うのが精一杯。1週間後にやっと落ち着いたTELで先方の様子が分かった。
 RさんはNTT九州に就職。30年前の阪神淡路大震災時、神戸・六甲地域で3ヶ月NTT復旧応援に入った。一段落した頃、娘さんが神戸大学受験希望、父のRさんは復旧復興中の神戸住まいを懸念し、他府県の進学を勧めたが見事合格。娘さんはRさんの応援部隊の寮みたいな所に住んだと言う。そして、卒業後司法の道へ。現在、佐賀市の法律事務所所属で、何とこの事務所「玄海原発訴訟団」の事務局事務所。私もこの訴訟に貧者の一灯していた。何という奇縁。
つまり30年前、被災企業の一員の私、神戸のNTT復旧活動のRさん、そしてその娘さんは神戸大学在校、この3人は30年前同じ神戸の空の下、お互いの未来を信じて暮らしていたのだ。
細く長い朝日新聞購読が60数年ぶりのTEL再会となり、加えてその娘さんとはFAX初交信。今度は娘さんが興奮して「エエッ!唐津の祖父母の実家の隣の富田さん。訴訟団カンパ一覧にお名前ありました」。このRさんから娘さんへの「細く長く」は、NTTならぬ未来へつながる新たな導線となるだろう。
2024.12.16 更新
第191回 トラックドライバー
 四季の移ろいは、早朝梅小路公園で体を動かしている私からすると、夜明けの変化で分かる。冬は6時でもまだ辺りは真っ暗、夏は東寺の開門の5時にはすっかり明るい。

 その東寺東門から南に下がった車道には、工事や食品車両が目的地の開門前で、毎朝数台が北向きに待機している。その金沢ナンバーの大型トラックもその内の1台。
3月、初めて能登・羽咋、七尾支援に行った後から少し気にはなっていた。かなり気にし出したのはやはり9月の豪雨(二次、複合)被害から。気にし出すと、いつ並んでいるかと毎朝歩道をウィーキングしながら見ていた。どうも2~3週間に1回くらいのペースの荷物入荷と思われた。

 11月中旬のまだ薄暗い6時過ぎの朝見つけた。自宅に取って返し、北國新聞記事などを封筒にしたため、再度トラックのもとに。身長より高い大型トラック運転台をノックする。運転手は怪訝な顔で窓を開けた。ジョギングスタイルの私の説明にもボヤっと聞いている感じだった。そりゃそうだ。金沢から未明に3時間ばかり走って来て、入荷まで仮眠する訳も行かずスマホを見て眠気を我慢している運転手に、突然近所のオッチャンの顔がニュッと現われたのだから。

 
その1~2週間後、日が昇りポカポカ陽気を予想さす午前、同じ場所に小松ナンバーの中型トラックで荷造りの点検している若者。丁度私は、手に北國新聞の私の投稿紙面コピー持っていた。私「小松から来たん?」、若者「ご存知ですか、石川の下の方」、私「知ってる知ってる、何度も行ってる」。と、ここまではこの若者「何度も」という表現で「同業者」位に思っていたろう。ところが私が「支援に何度も」と言ったとたん、作業の手を止めまじまじとこちらを見る。そして北國新聞を見せ、手渡す。彼の顔が急に柔和になった。

 先の大型トラックドライバーには私の連絡先が書いてある封筒、この中型ドライバーには新聞紙面だけ。だからまず返信は期待できない。
それでも、3時間ばかり走る石川~京都の道中で、待機の東寺東門辺りで、そんなオッチャンがいる事を思い出してくれれば、それで良い。

 と、ここで本文を結ぼうと思っていたら、それから1~2週間後、暖かい冬の日差しが立ちこむ朝8頃、新調した上等の会津の桐下駄でカランコロンと歩いていたら、くだんの大型トラックがいる。歩道から運転台助手席をノックする。私「覚えてる?」と聞くと、彼は即座にゴミの山と化した助手席から、先日渡した封筒を掲げた。いや~嬉しい限り。
実はその日は、私が74歳になった翌朝だったのだ。
2024.12.02 更新
第190回 場外
 もったいぶった予言通り、今号は11/24朝日新聞全国版登場。この新聞での全国版は2014年連載企画「大介護時代」で過去一度あった。今回「喪の旅」と、妻の介護のビフォーアフターの登場となった。

 全国版なので、札幌から沖縄までの旧友などに、腑抜けになってないぞと声掛けした。
それ以上に、取材記者から得た情報では、本紙全国版は掲載日に一日前後して、海外デジタル版になって世界へ発信すると。つまり世界各国の邦人向けの朝日新聞になるっていう事。ならば、早速小欄で度々紹介のベトナムの少なからずの友人や、経由して日本語学校にも連絡した。

 当初、日本全国へと思っていた我が家からの情報は、大谷翔平じゃないが、日本を飛び越え遠く場外の世界へと飛び超えて行った。
2024.11.15 更新
第189回 広域
 前々号は北國新聞、前号は京都新聞市民版(京都市内の9行政区)、そして今号は
ついに11/4京都新聞全域版(京都府下+滋賀県)


※画像をクリックすると拡大できます。

 反応は20件超えた。伴侶失った当事者が当然大半だが、人生相談とか、心霊師とかからも。色んな読者と色んな読み方があるもんだと妙に感心。
この反応数は、「会」発足時前後の2018年、新聞TVなど各メディアの報道で一気に100人近くからの問合せ以来だ。急に膨らむと急にしぼむ気球と同じで、時間と共に適度な大きさになっていくもんだ。
 マジに考えても、当時より高齢者の環境は一層厳しくなっている。
目減りする年金など経済的貧困、不安な介護施策、独居老人の放置された地域、厳しい終活、そこに伴侶を亡くした寂しさ喪失感が加わる。二重の自然災害受けた能登だけでなく、「長生きして良い事はない」の声が全国津々浦々。

 しかし、それでもそれでも、昭和の時代この国の屋台骨を作ってきたのは今の高齢者と言われる人々です。これはこの国のまぎれもない事実です。前を向きましょう。
冒頭に三度目の新聞露出と書いた。二度あることは三度ある。って事は四度あってもおかしくない。そう、次号は四度目になるかも。四番バッターの登場かも。そしてもっと広域な声に広がるかもね。
「ムービー軌跡」
千代野基金

- CafeLog -