2025.09.16 更新
第209号 沖縄尚学が教えてくれた事

現地の友人から、即取り寄せた「号外」。
映画・「木の上の軍隊」を観てピッタリ3週間後、こんな事になろうとは…。
沖縄尚学高校の2025年夏甲子園制覇!
そして映画の主人公の幼馴染の与那嶺役の津波竜斗は、この高校野球部OBと、話が出来過ぎてるが「事実は小説より奇なり」である。
何と言っても、甲子園出場選手の名前が良い。新垣、末吉、比嘉、宮城.安谷屋、大城辺りは範疇だが、宜野座、真喜志、阿波根と来ると、もう沖縄の歴史、地名そのもので、そこに住む人々と地域が目に浮かぶ。加えて優勝直後の真喜志主将の母子のエピソードに泣き、それからYOUTUBEで優勝の日の市場、学校、大型商業施設など沖縄現地の大盛り上がり、逆に表通りに人がいない…にビックリ仰天。その証拠に、現地のTV視聴率が50%を超えた。この沖縄県民の一体感は(47都道府県で沖縄だけだろう。関西の我々には経験も実感もないので理解不能だろう)何だろう?!
そんな喜び大爆発の中、おばあが一言「15年ぶりの沖縄優勝、次は(15年先)生きとらん。…戦後80年…良かった」と。
そうか、そうなのだと、独り大泣きと独り祝杯しながら思い出した。
2015年5月3日(「憲法記念日」にニューヨークタイムズアジア版の意見広告運動。
その画期的な大ヒット、つまり全国からの賛同金が超過達成で使途を腐心した時、間髪
入れずの「来月(6月)の沖縄慰霊の日(23日)に沖縄二紙に意見広告だそう」との声。
「来月だと」言うのは簡単、やるのは私。でもフッと経験が強みと実感。つまり広告と旅行業界の表裏熟知していたので、イケるんじゃないかと朧げな確信。そうなると後は早い。NYタイムズ掲載前の4月最終週には、すでに大阪中之島の、琉球新報、沖縄タイムズの大阪支社で締切、紙面構成、そして一番大事な広告料金などの掲載調整していた。そのやり取りの中、つまり広告掲載紙の入手で「離れ業」企画のヒントを得た。
要は、6月23日の朝刊二紙は、その日の夕方京都で見れるって事。那覇~伊丹(空輸)~京都(陸送)。ならばその意見広告紙面をテキストに学習会が出来る!ならばその現地新聞社幹部招聘!と、トントン拍子に話が決まっていった。沖縄尚学でないが、これが「勢い」と言う物。思い出しただけでも興奮する10年前(戦後70年の2015年)だった。
…そして今、こんな10年後になろうとは…。
沖縄尚学優勝の号外と翌日の新聞二紙は手に入った。
その余韻は、ただ現地新聞を手に入れただけでない。
やっぱり、こういう声かけをしてくる人がいるもんだ。「富田さん、ただ興奮してる場合じゃないよ。こんな話が来た…」。「こんな話…?」
「当時の首里城地下司令部(「32軍」)の模型展示会を今年中に関西でやれないか?!
良く言うよ…。模型の安全移送、趣旨への賛同、時間がないなど難問だらけ。
だが「戦後70年企画・沖縄二紙への意見広告」事務局長の私へだ。そしてこの模型設計者はお隣の滋賀県大津市出身と言う。沖縄尚学優勝から飛び込んできたこの話・「戦後80年企画」は、簡単に断われない…。
2025.09.01 更新
第208号 漏水
7月末の水道メーター検診の結果メモに、印刷された「多水量のお知らせ」がホッチギスで付いていた。見ると平常の4倍の数値で、メーターが24時間回りっぱなし、つまり漏水しているという事。手書きでなく印刷メモなのでこのような事例が多い事がわかる。
早速大工の甥に連絡して、床下見てもらったがどの部分、つまりトイレ,風呂、洗面台、台所、給水器のどこからの漏水かわからない。数日して甥の紹介の水道屋さんが来た。
同じ様に床下に潜り、水道管の配線状況と、かすかな漏水の音に耳を当てている。
数日後漏水場所特定と補修工事になった。
床下に、かなり強力なライト持って潜り、漏水個所を探し当てた。風呂への配管が破損していると。長女が生まれた時この家を新築購入したので40年になる。さもありなん。
問題は破損配管とそのための風呂と洗面台の水回りをどうするか?
せいぜいここに住むのは今後10年位だろう。なので経済面第一に簡素な方法を選んだ。
風呂までの床下配管を途中から、部屋に上げシャワー中心にする。勿論シャワーの湯は風呂場に張れる。洗面台は水部分の青色のコックを止めた。赤色のお湯部分のコックで水は出るし充分。
ざっと4時間の工事、初めての事なので興味もありその間ずっと見ていた。
もちろん工事中は邪魔にならない程度の質問と、作業の手際を褒めたりして、酷暑の中気分よく作業できる雰囲気作りに心がけた。
そして、工事完了が見えだすと、大柄なその彼も気分が乗って来て、こちらの話題にもキチンと応対し始めた。
京都の上下水道の歴史から、最近各地の水道管破裂事故、そして鴨川・琵琶湖疏水事情。
話題は飛んでアフガンで用水路建設に命を懸けた中村哲医師、私自身のカンボジアでの井戸掘りカンパ活動などなど。作業の終わりが見えてきて、彼も余裕も出てきたのか段々と私の方を見る回数が増えてきた。彼には新鮮な情報ばっかりだったのだろう。顔中汗だらけだが、眼は驚きでカッと見開いていた。
早速大工の甥に連絡して、床下見てもらったがどの部分、つまりトイレ,風呂、洗面台、台所、給水器のどこからの漏水かわからない。数日して甥の紹介の水道屋さんが来た。
同じ様に床下に潜り、水道管の配線状況と、かすかな漏水の音に耳を当てている。
数日後漏水場所特定と補修工事になった。
床下に、かなり強力なライト持って潜り、漏水個所を探し当てた。風呂への配管が破損していると。長女が生まれた時この家を新築購入したので40年になる。さもありなん。
問題は破損配管とそのための風呂と洗面台の水回りをどうするか?
せいぜいここに住むのは今後10年位だろう。なので経済面第一に簡素な方法を選んだ。
風呂までの床下配管を途中から、部屋に上げシャワー中心にする。勿論シャワーの湯は風呂場に張れる。洗面台は水部分の青色のコックを止めた。赤色のお湯部分のコックで水は出るし充分。
ざっと4時間の工事、初めての事なので興味もありその間ずっと見ていた。
もちろん工事中は邪魔にならない程度の質問と、作業の手際を褒めたりして、酷暑の中気分よく作業できる雰囲気作りに心がけた。
そして、工事完了が見えだすと、大柄なその彼も気分が乗って来て、こちらの話題にもキチンと応対し始めた。
京都の上下水道の歴史から、最近各地の水道管破裂事故、そして鴨川・琵琶湖疏水事情。
話題は飛んでアフガンで用水路建設に命を懸けた中村哲医師、私自身のカンボジアでの井戸掘りカンパ活動などなど。作業の終わりが見えてきて、彼も余裕も出てきたのか段々と私の方を見る回数が増えてきた。彼には新鮮な情報ばっかりだったのだろう。顔中汗だらけだが、眼は驚きでカッと見開いていた。
2025.08.15 更新
第207号 「我は海の子」続編~「木の上の軍隊」
前号脱稿時続編のつもりはなかった。それがこうなったのは…。
それは、映画のラストシーンで広がる海。主人公一家が育ち営みの海、敵艦の現れない、戦さのない静かな海。平和な未来を告げる海…って感傷に浸ったからだ。
映画の大半のジャングルの中での描写のままラストでは心は晴れない。それが沖縄の広大な海を最後に見て、鑑賞者の気持ちもホッとして、映画館を出れる。
映画「木の上の軍隊」。
まずこのタイトルネーミングに感心する。これが「伊江島で終戦知らずに戦い続けた日本兵士」では全く面白くない。ネーミングの妙味がこの映画への興味を引き起こす。
沖縄戦・伊江島での事実に基づく井上ひさしの原作。島に残され終戦を知らない二人の兵士の、援軍が来ると信じ身を隠す2年間の樹上での生き様を描いている。
水、食料確保と言う生き続けるための工夫、日付を忘れず日記をつけ平常心保つ工夫、昼夜いつ勃発するかわからない戦への恐怖、それに耐えようとするはかない日本軍人の心構えなどが描かれている。それは飢餓直前で、米兵つまり敵の残飯を食えるかどうかなど、具体的シーンで表現されている。
我々は、終戦後も南方で軍人として生き続けた横井庄一、小野田寛郎氏の事を史実として知っている。その生きぬく執念の一端も、この映画で垣間見た思いがする。
もう一つの史実は、舞台となった伊江島に住み、戦後反戦非暴力の農民運動を組織した阿波根昌鴻氏の「ヌティドゥタカラの家」。(小欄一部「千代野ノート」47号、48号参照)
さて戦争の実相は…。
遺族に渡された白木の遺骨箱の中は石ころだった話は数多く聞く。当然だ。激しい戦闘の現場で戦死者の氏名・数など分かるはずがない。
80年前の大戦での日本軍戦死者の230万人の6割の140万人が餓死なのだ。これは本土近くの中国戦線なども入れての平均値で、南方では7~9割が餓死との調査学説が大半だ。勇ましく敵と戦いまみえての戦死でない。勇ましく敵艦に体当たりした特攻隊戦死者の数でもない。戦う以前の人間と言う生き物が自滅していく様だ。人間は水だけで3週間は生きられると言うが、食べ物無く、真っ当な水も潰える灼熱のジャングルの中を、重い装備品を背負いさまよい、病魔に侵され、援軍、支援物資もなく骨と皮だけになってやがて餓死していく。
丁度この映画館では、1959年版「野火」も同時上映されていた。大岡昇平原作、市川崑監督作品。(リメイクの2014年版塚本真晋也監督作品でない)「人間の獣化」つまり戦死者の人肉を喰らう、餓死寸前の日本兵士を描く衝撃作と当時言われた。
気持ち悪くて観る気はしない。落ち込んで映画館を出る羽目にはなりたくない。
しかし「木の上の軍隊」より「野火」の方が史実に近いのだろう。
戦争の記録に接するだけでも顔を背けるほどに怖いのに、現場にはとても居られない。
決して潔くとか、勇ましくとかでない、人間の心を無くした狂気空間が戦争なのだろう。
それは、映画のラストシーンで広がる海。主人公一家が育ち営みの海、敵艦の現れない、戦さのない静かな海。平和な未来を告げる海…って感傷に浸ったからだ。
映画の大半のジャングルの中での描写のままラストでは心は晴れない。それが沖縄の広大な海を最後に見て、鑑賞者の気持ちもホッとして、映画館を出れる。
映画「木の上の軍隊」。
まずこのタイトルネーミングに感心する。これが「伊江島で終戦知らずに戦い続けた日本兵士」では全く面白くない。ネーミングの妙味がこの映画への興味を引き起こす。
沖縄戦・伊江島での事実に基づく井上ひさしの原作。島に残され終戦を知らない二人の兵士の、援軍が来ると信じ身を隠す2年間の樹上での生き様を描いている。
水、食料確保と言う生き続けるための工夫、日付を忘れず日記をつけ平常心保つ工夫、昼夜いつ勃発するかわからない戦への恐怖、それに耐えようとするはかない日本軍人の心構えなどが描かれている。それは飢餓直前で、米兵つまり敵の残飯を食えるかどうかなど、具体的シーンで表現されている。
我々は、終戦後も南方で軍人として生き続けた横井庄一、小野田寛郎氏の事を史実として知っている。その生きぬく執念の一端も、この映画で垣間見た思いがする。
もう一つの史実は、舞台となった伊江島に住み、戦後反戦非暴力の農民運動を組織した阿波根昌鴻氏の「ヌティドゥタカラの家」。(小欄一部「千代野ノート」47号、48号参照)
さて戦争の実相は…。
遺族に渡された白木の遺骨箱の中は石ころだった話は数多く聞く。当然だ。激しい戦闘の現場で戦死者の氏名・数など分かるはずがない。
80年前の大戦での日本軍戦死者の230万人の6割の140万人が餓死なのだ。これは本土近くの中国戦線なども入れての平均値で、南方では7~9割が餓死との調査学説が大半だ。勇ましく敵と戦いまみえての戦死でない。勇ましく敵艦に体当たりした特攻隊戦死者の数でもない。戦う以前の人間と言う生き物が自滅していく様だ。人間は水だけで3週間は生きられると言うが、食べ物無く、真っ当な水も潰える灼熱のジャングルの中を、重い装備品を背負いさまよい、病魔に侵され、援軍、支援物資もなく骨と皮だけになってやがて餓死していく。
丁度この映画館では、1959年版「野火」も同時上映されていた。大岡昇平原作、市川崑監督作品。(リメイクの2014年版塚本真晋也監督作品でない)「人間の獣化」つまり戦死者の人肉を喰らう、餓死寸前の日本兵士を描く衝撃作と当時言われた。
気持ち悪くて観る気はしない。落ち込んで映画館を出る羽目にはなりたくない。
しかし「木の上の軍隊」より「野火」の方が史実に近いのだろう。
戦争の記録に接するだけでも顔を背けるほどに怖いのに、現場にはとても居られない。
決して潔くとか、勇ましくとかでない、人間の心を無くした狂気空間が戦争なのだろう。
2025.08.01 更新
第206号 「我は海の子」
唱歌「我は海の子」の2番の歌詞に「…生まれてしおに浴(ゆあみ)して…」とある。
玄界灘で育った我が身も当時から、「海で泳げば体が強くなる」みたいな事を聞いていた。海水はミネラル、イオン、アルカリが多く、皮膚アレルギーなどに効く、更に良質のカルシウムが骨を作る。とにかく海水浴は体に良い事ばかりと教え込まれていた。加えて太陽光を浴びる、広い海原を見ると精神効用にも繋がるとも。とにかく海は良いことづくめのオンパレードだった。
確かに60数年経た今夏、琵琶湖の湖水、月に10数回通うプールと違って毎夏数回行く舞子の海(明石海峡大橋直下)に触れると、プールのそれとは違う感触は体全体でわかる。
ならばよく似た成分の温泉とはどう効用の違いがあるかと考えた。
温泉も上述の元素がタップリで、早い話温泉と海水浴は同じ効用らしい。
再び故郷の話に戻るが、潮湯と言う温泉があったのを思い出した。つまり海水をそのまま沸かし、温泉状態にする。ならば海に近い旅館は海水引いて潮湯温泉にすれば春夏秋冬集客できそうだが、海水なため機材の清掃など管理が大変だとかも思いだした。調べると現在関西では大阪・堺に一軒ある。
そんなこんなの海水浴効用だが、要は高価な温泉に行かずとも、同様の効用は夏の海水浴で充分だと言う事。加えて、海はプールの様に狭い枠内(コース)を行ったり来たり泳ぐのではない。今夏も「遊泳禁止」ブイ迄までの距離を泳ぎ、ブイにつかまってボォ~ッと青い空を見上げる。海の中はプールよりグンと冷たいし、藻もあり、7月下旬でも藻やクラゲも触るなどプールとはその障害物の存在という点で全然違う。
雄大な明石海峡大橋を右に見て、見上げる青空を、近くの神戸空港から離発着便が飛んでいる。
そして私の体の中まで潮が染み渡っていく感じが心地よい。これで今冬も風邪ひかないだろうと勝手に思い込む至福の時だ。アア~「74歳・我は海の子」だ。体も心もリフレッシュ効果は言わずもがなである。
さて冒頭の唱歌に戻るが、最後の7番の歌詞。「…いで軍艦に乗り組みて、我は護らん海の国…」部分は、戦後すぐ軍国思想とGHQに決めつけられ1947年に削除され、4~6番もそのとばっちりでカットされ、現在学校で歌う「我は海の子」は、3番までになったそうだ。
玄界灘で育った我が身も当時から、「海で泳げば体が強くなる」みたいな事を聞いていた。海水はミネラル、イオン、アルカリが多く、皮膚アレルギーなどに効く、更に良質のカルシウムが骨を作る。とにかく海水浴は体に良い事ばかりと教え込まれていた。加えて太陽光を浴びる、広い海原を見ると精神効用にも繋がるとも。とにかく海は良いことづくめのオンパレードだった。
確かに60数年経た今夏、琵琶湖の湖水、月に10数回通うプールと違って毎夏数回行く舞子の海(明石海峡大橋直下)に触れると、プールのそれとは違う感触は体全体でわかる。
ならばよく似た成分の温泉とはどう効用の違いがあるかと考えた。
温泉も上述の元素がタップリで、早い話温泉と海水浴は同じ効用らしい。
再び故郷の話に戻るが、潮湯と言う温泉があったのを思い出した。つまり海水をそのまま沸かし、温泉状態にする。ならば海に近い旅館は海水引いて潮湯温泉にすれば春夏秋冬集客できそうだが、海水なため機材の清掃など管理が大変だとかも思いだした。調べると現在関西では大阪・堺に一軒ある。
そんなこんなの海水浴効用だが、要は高価な温泉に行かずとも、同様の効用は夏の海水浴で充分だと言う事。加えて、海はプールの様に狭い枠内(コース)を行ったり来たり泳ぐのではない。今夏も「遊泳禁止」ブイ迄までの距離を泳ぎ、ブイにつかまってボォ~ッと青い空を見上げる。海の中はプールよりグンと冷たいし、藻もあり、7月下旬でも藻やクラゲも触るなどプールとはその障害物の存在という点で全然違う。
雄大な明石海峡大橋を右に見て、見上げる青空を、近くの神戸空港から離発着便が飛んでいる。
そして私の体の中まで潮が染み渡っていく感じが心地よい。これで今冬も風邪ひかないだろうと勝手に思い込む至福の時だ。アア~「74歳・我は海の子」だ。体も心もリフレッシュ効果は言わずもがなである。
さて冒頭の唱歌に戻るが、最後の7番の歌詞。「…いで軍艦に乗り組みて、我は護らん海の国…」部分は、戦後すぐ軍国思想とGHQに決めつけられ1947年に削除され、4~6番もそのとばっちりでカットされ、現在学校で歌う「我は海の子」は、3番までになったそうだ。
2025.07.15 更新
第205号 七夕短冊
京都の夏、涼しいのは朝8時位まで。だから体動かすのも夜明けからそれ位までに済ませている。その早朝ふと見つけたマンション入り口の七夕短冊。そもそも、七夕短冊は6月終盤から、
よく商業施設、子供が通う施設にはほとんど飾られている。子どもたちが思い思いに、学力やスポーツの能力向上を書いている。
さてそのマンションのその中の一つ。「お母ちゃん、お父ちゃんとお兄ちゃんが、一緒にいっぱい幸せに暮らしていますように」とある。
「お母ちゃん」の後に「へ」か「に」があれば、天国のそれとわかるし、「暮していますように」も、「暮していけますように」なら、自然と理解できる。
文言の正誤は不明だが、どうやら母を亡くして父子三人の暮らしと勝手に判断した。
なら、どうするか?東寺南門前の下駄のオッチャン。
その小学生と思しき娘の短冊に続けて、こちらの連絡先も分かる形で「応援しています」と記した。
果たして、小欄更新日までこの娘からの連絡はない。…がっかりと思いきや否、別の七夕織姫を思い出した。前号「日べト特設ページ」の女の子。実は昨年、琵琶湖で泳ぎを教えた後、彼女から「アリガトウ」と、指にはめるリングをその場でもらっていた。
今年も来ているかなあ~とリングを持って琵琶湖へ。…果たして、スタッフに聞くと「今年は来ていない」。ああ~。
かくして、二人の織姫から振られた東寺近くの下駄オヤジの今年七夕の星は、もろくも流れ去った…。レ・ミゼラブル。
そんなこんなの、孫に当たる令和に生きる二人の女の子に、昭和を生きてきた74歳の爺が伝えるのは歴史の証言。「7/7」は、泥沼の日中戦争に発端になった1937年盧溝橋事件の日でもあるのだ。今年は戦後80年。
よく商業施設、子供が通う施設にはほとんど飾られている。子どもたちが思い思いに、学力やスポーツの能力向上を書いている。
さてそのマンションのその中の一つ。「お母ちゃん、お父ちゃんとお兄ちゃんが、一緒にいっぱい幸せに暮らしていますように」とある。
「お母ちゃん」の後に「へ」か「に」があれば、天国のそれとわかるし、「暮していますように」も、「暮していけますように」なら、自然と理解できる。
文言の正誤は不明だが、どうやら母を亡くして父子三人の暮らしと勝手に判断した。
なら、どうするか?東寺南門前の下駄のオッチャン。
その小学生と思しき娘の短冊に続けて、こちらの連絡先も分かる形で「応援しています」と記した。
果たして、小欄更新日までこの娘からの連絡はない。…がっかりと思いきや否、別の七夕織姫を思い出した。前号「日べト特設ページ」の女の子。実は昨年、琵琶湖で泳ぎを教えた後、彼女から「アリガトウ」と、指にはめるリングをその場でもらっていた。
今年も来ているかなあ~とリングを持って琵琶湖へ。…果たして、スタッフに聞くと「今年は来ていない」。ああ~。
かくして、二人の織姫から振られた東寺近くの下駄オヤジの今年七夕の星は、もろくも流れ去った…。レ・ミゼラブル。
そんなこんなの、孫に当たる令和に生きる二人の女の子に、昭和を生きてきた74歳の爺が伝えるのは歴史の証言。「7/7」は、泥沼の日中戦争に発端になった1937年盧溝橋事件の日でもあるのだ。今年は戦後80年。




