2026.02.02 更新
第218回 コブ続編・切除手術入院
 15年前の緑内障手術は、眼の手術という事自身の怖さがあったが、今度は腰のコブ取り。前者は眼の周囲の部分麻酔のみ、事前に1時間ばかりと聞いていた。今度の部位切除は簡単だが大きいので全身麻酔で、2~3時間かかると。全身麻酔は眠らされる訳で、その間夢は見るのかなあ~など呑気な手術台だった。
加えて、入院生活で前者は眼なので新聞・パソコンが全くダメで、世の中の動きがわからず、1日が長く、暇を持て余すのが大変だった記憶がある。今回はその心配はない。
 果たして、その手術。
体位は、右90度にする。つまり右腕右足が下、左腕左足が上、患部(腰の真後ろが)手術台の左で、そこからメスが入り切除する形となる。私の記憶はそこまでで、全身麻酔で即お眠り状態になる。そして3時間後、
【意識朦朧】
 富田さ~ん、富田さ~ん」と遠くから聞こえる声で目を覚まし、手足動かすとベッドは手術台から病室へ移送されていて、私の顔の上の看護士数人と片言喋り、再びすぐ眠った。
そして再び目を覚まし思い出したのは、手術室に入り麻酔直前の看護士との軽口は覚えているが、今しがた最初に目を覚ましたやり取りは全く記憶がない。よくある前の晩飲み過ぎて翌朝覚えていないあの感じだ。
 そこで、「意識」と「記憶」を考えた。
意識は語学的には、自分と周りの状況を正しく認識出来るとある。上記比喩の酩酊状態からはストンと納得。記憶は過去の断面を正確に繰り出せる事。
そこで少しヒャッとしたのは、意識朦朧で発した言葉だ。理性利かず好きに要らん事喋ってなかったか?おお~怖い。
【自由束縛】
 手術直後は、傷口からの膿を取る管、尿を取る管、心電図の数本の管、そして点滴の計4本が体中に巻き付いている。当然傷口は痛い。つまり体が動かない、動かせない状態。手術後から18時間。勿論絶食状態、手術前日の夕、今朝、昼と胃の中に何も入っていない勿論夕食もない。指定された飲料水だけ。病棟の室温は高く乾燥している。苦行だ。
動けない、寝れない、眠れない。手術傷は痛む、暑い…夜が長い、時計の針が進まない…。
 しかしその甲斐はあった。翌日午前患部以外の3本の管が外れた。大袈裟だが、かなり自由の身になった。その翌日、最後の1本、つまり傷の膿収集の管が医師の予定容量に達し、コブの(中の)膿は完全に消え去った。今まで野球ボール半球・お椀の様な腰の後ろは、全く平たんになった。それはまっすぐ天井見て寝れる状態になった事を意味する。

 やがてパソコン開くと、その天井の先の先の天下国家は、全く訳が分からない複雑な状況になっている。選挙後も、私のコブ切除の様に簡単には行かないだろう。
2026.02.02 更新
「我が故郷」(会報39号より)
◇私の辿った道

K・Mさん


 高校生の時に修学旅行で訪れた京都の街が大好きになり、歴史学専攻志望だったので、大学進学に関し東京ではなく京都の大学に絞って受験して、山から這い出して京都にやってきました。

善光寺後背の山から見た長野市街
善光寺後背の山から見た長野市街
 その山の中、信州の、善光寺で有名な街・長野市が私の故郷です。京都も盆地ですが、私に言わせれば可愛い盆地です。長野盆地は、視界360度に標高2000メートル級の山々が、それこそ屏風のように囲み、「外界から遮っている」といった様相です。「絶対にこの閉塞した世界から出てやる」というのが大望抱く信州の青年の共通の志だったように思います。そして、三島由紀夫の『金閣寺』が気に入りだった高校生は、小説の中の通りに「大谷大学の溝口青年」になりました(註:金閣寺に火は付けていません)。
 近畿地方を隈なくフィールドワーク?して充実した学生生活でしたが、就職への意識が無頓着で4回生になって少し慌て、とにかく教員になろうとしましたが、公立の試験は準備不足で敗退。ギリギリまで親戚の伝手を頼って、なんとか東京の私立女子高に非常勤講師でしたが決まり、大好きな京都を離れ東京へ。

伊豆大島から富士山を望む
伊豆大島から富士山を望む
 非常勤講師は身分が安定しないので、20代はずっと不安に時を過ごしておりました。「これでは人生が立たない」と、一念発起し、路線を変更し福祉の道を志したところ採用されたのが、知的障害者施設職員の仕事でした。やり直したいという思いを強く持って赴任したのは、東京には違いないのですが、伊豆大島でした。平成4年のことですが彼の地は私が育った高度成長期の日本の面影が未だ残っていました。それは、何かありがたかったです。妻(東京都多摩地域出身)とは大島赴任中に結婚したのですが、食いしん坊の妻はよく、「美味しい大島」と言っていました。アシタバ、くさや、メッカリ、キンメ、べッコウ寿司…。大島ではわさびが摂れないので、青唐辛子(通称:アオトウ)を付けて刺身を食べます。独特のピリッとした味は格別です。
 10数年暮らした大島と泣く泣く別れ、本土に戻って埼玉県に。仕事も高齢者福祉へ。そして、妻との死別。65歳になろうとしている時に、コロナ禍の時の苦い思いも手伝って、自然と「もう一度、京都で暮らしたい」と思うようになり(40年間、必ず年に1、2回は京都を旅行していました)、一昨年の3月に京都に舞い戻ってきて、そして、皆さんとお会いしました。
 いろいろな所に住みましたが、長野と、京都と、伊豆大島は、私にとって「格別の土地」です。



◇私には故郷というものがない

S・Mさん


 私が生まれ幼少期を過ごした岐阜市郊外が故郷と言えないこともない。岐阜市、半田市、一宮市、豊橋市、稲沢市と5つの街に住み、3つの小学校、2つの中学、2つの高校に通った転校生活。親父が転勤族だった。

岐阜城と岐阜市街
岐阜城と岐阜市街
 困ったのは、同じ中部地方といえども言葉の違いで、担任の先生からも笑われた。結果、京都に半世紀以上住まうが、どこの言葉でもない私自身の方言?
また、親しくなってすぐに転校で友と離れる辛さもあったが、性格からか防衛本能が働くのか、すぐに新しい環境にも慣れ友人もできた。で、いまも装う八方美人的な性格。
 中学高校とサッカーに明け暮れるが、高校一年で両親から離れ下宿生活を送っていた。ひとり寂しい下宿生活を見かねたサッカー部顧問から転校を勧められ、編入試験の末、豊橋から名古屋の高校に編入学、両親と住み高校へ通うことになった。川端康成「古都」に描かれた京都に憧れた高校2年生。京都旅行のために友人と鉄工所や日雇い人夫と初めてのアルバイト。貯めたお金で、その友人と二人、京都御所や北山、貴船と足を運んだ。
 京都の大学を選んで受験、これにはもう一つ理由があって、当時付き合い始めた彼女が家業の倒産で進学を諦め大阪に就職、近くに居たいという理由もあったが、早々に別れを告げられ、あえなく撃沈。さて、いくつか受験して引っかかった立命館大学で新しく始まった学生生活は、学園紛争の真っ只中。『学問の自由と大学自治を守れ』とヘルメット学生や機動隊と対峙する側にいた。そんな中で、誘われて入った底辺問題研究会。学内ではスラム街など社会の貧困や底辺の問題を学び、学外では学生セツルメント活動(以下、セツル)に出向いた。授業もそこそこに東九条のスラム街に通い、子ども会や勉強会などに取り組んだ。
 そこで連れ合いを知り、付き合い始めた。彼女の告白が先だと思っているが、違うと言われるかもしれない。東京・原宿から出てきたトンボメガネのオネエちゃんは急速にセツルで自己を変革し、教職を目指した。彼女の卒業と中学教員採用を待って早々に結婚した。私はというとセツルの延長で京都市内の児童館に勤めていた。
 子どもも3人授かり、次男の不登校など紆余曲折も経て、みな自立、学費や家のローンも終わった50代半ば、お互い好きなことをやろうと、彼女は中学から特別支援学校(旧大阪市立盲学校)の教壇へ、私はというと飲み屋の大将へと。
 49歳で発症した乳がんは5年後にリンパへの転移、それから5年。59歳、私の58歳の誕生日の旅立ちだった。亡くなる1ヶ月前まで「子どもたちが待ってる」と腫れ上がった腕に教材を入れたスーツケースを包帯で結んで出勤した。これには近所の方々にも「奥さん大丈夫?」と心配をかけた。薬を飲ませようとしても最後まで「自分のことは自分で出来る」と頑張ったスゴい女性だった。
 毎年、お盆正月には3人の子どもたちと6人の孫が我が家に集う。私には故郷というものがないかもしれないが、彼女と共に残した故郷が今ここにある。

2026.02.02 10:17 | pmlink.png 固定リンク | folder.png 腑抜けNo会
2026.02.02 更新
新春3日地元紙1面、在京都の外国人連続企画スタート
 その1回目・綾部の労働者、最終回(6回目)は京都市内の留学生。それも、懇意のVYSA京都の新会長。マンさん。ビックリした。特に最終回は、1面と3面(社会面)の各々トップ。
 贔屓目に見ても、2~5回目がブラジル、朝鮮半島の方々や民泊など一般的コミニュティーの記事だったが、この2回のベトナム記事はしっかり京都に根付き、京都で生き学ぶ姿勢がハッキリして好感度ばっちりの記事だった。
 要は、この京都も外国人との共生が必至と言う事。
京都新聞1面京都新聞3面
「ムービー軌跡」
千代野基金

- CafeLog -