2024.05.15 更新
新シリーズ 「健康法・生きがい」その1

色んな解釈の「健全な精神は、健全な肉体に宿る」


 昔からこの言葉は使われるが、この文言通りとか、これは風刺、願望とか古今東西かまびすしい。

 今年の「腑抜けNO会新年会IN宇治」で、私は元日の能登地震に言及して、29年前の阪神淡路大震災時の数々の体験で、「男はつらいよ48作・紅の花」と、私の関わりを紹介した。(拙ブログ「千代野ノート」166回 10年前の震災 その③ 参照)
 JR元町駅前の私の職場も無茶苦茶の中、同じ被災者同士の一杯飲み会で、誰かが「今度の『寅さん』は奄美が舞台らしい。『寅さん』神戸に来てくれへんかなあ。神戸は『奄美神戸会』もあり、出身者も多い土地柄。」、別の人は「そんなもん出来るわけがない。もう映画の構想は進んでいる」。…しかし、被災地激励に、実存する人物でなく、映像の中の架空の人物が神戸に来てくれたら、どんなに励まされることか…。この話しはすぐに地元の神戸新聞に「『寅さん』神戸に来て!」と掲載された。
 私(たち)が書いた素人シナリオを、直接山田洋次監督に手渡すチャンスは5月の京都。私は一人緊張しながら黒縁メガネの監督に向き合った。監督は「これは、貴方が書かれたのものですか?」、私「ハイ、素案は私が書きました」。部屋を出て、当然ダメと思っていた。…、しかし1~2月後「『寅さん』が神戸に来る!監督が48作シナリオを変更して、実際の神戸被災地を撮る」との吉報で神戸が沸いた。そして素人シナリオは、映画のラストの場面で採用された。長田・菅原市場焼け跡地でのハンマダンの踊りの輪に中に「寅さん」が来た。その映画の最後のセリフでもあり、この作品が遺作となった渥美清さんの最後のセリフ「皆さんご苦労様でした!」。「寅さん」が被災者へ、且つ渥美清の日本国中への遺言の様な一言。

 スタッフ、キャスト誰も気づいてない中、死期が近いと悟っていた本人渥美清と山田洋次監督二人だけの渾身の最後のシーン作り。だからこの48作全編を注意してよく観て欲しい。渥美さんが立って動くシーンはほとんどない。唯一この最後のシーンで、「寅さん」はいつものトランク持って、雪駄で現実の神戸の被災地に立ち、歩いたのだ。

 人間、人知れず不健全な体でも他人様のため、自分の仕事の立ち位置から、人々に激励を、その精神を贈ることができる。私はこの映画作りの生き証人として、それだけは言える。
2024.05.15 10:01 | pmlink.png 固定リンク | folder.png 腑抜けNo会
2024.05.15 更新
大阪城公園にて

 4月27日、大阪城公園・太陽の広場でベトナムフェスティバル。
 在京都ベトナム人も、在関西ベトナム人会ブースに集まると言うので行ってみたが、そのブースには、在大阪ベトナム人会の役員さんが一人だけ。
「どうなってるん?」の表情の私(右端)。真ん中はその女性役員さんでニッコリ。
2024.05.02 更新
第176回 尺八
 「尺八は、この楽器の長さが一尺八寸で、それが由来です」。会場の私と同年配の20数人から「へぇ~」。そんなものだ。案外知らない名前の由来。まして尺、寸なんて大昔の計量なので、現代は知り由もない。
 その会場とは、水上勉「五番町夕霧町」で有名な地域で、小さい寺が多いのかも疑問だったので住職に聞くと、「豊臣秀吉が大火の防火地域として、密集する一般家屋より広い寺を創ったと言うが定かでない」と。

 私は25年前(1999年)の5月3日(憲法記念日)に茂山千ノ丞、観世榮夫さんをメインにした「反核能と狂言の集い」(in金剛能楽堂)企画の事務局長をやったので、その構成の中で、開演を知らせる一本の笛の、会場をつんざく響きに感嘆した記憶があり、今回の尺八演奏に興味があったので出かけた。
 先程の名前の由来に加え、尺八と言う楽器のそもそもの話が、参加者にストンと落ちた。竹と言う自然の樹木から出来ているので、自然に調和する音色を貴ぶ。だから大自然、悠久の世界に誘う音色、西洋8音階の、ミとシがないので、奏者の舌と首を若干動かす仕草でその音を出す。八寸より長い尺八は低い音域の曲、逆に短い尺八は高い音域の曲と使い分けるとも。楽器も奏者もその日その日の気候、体調などで音が微妙に違うのだと。(まあ~素人にはわからない)だから、楽譜も独特。これも素人では全くわからない。わかるのは、独特の音色でちょっと入り込む瞑想的な世界だ。

 今回の企画は、風の音の様な尺八の響きと、これも風の音の様な刃・殺陣の所作のコラボ。
これも初歩的な驚きは、武士は必ず右利き(左利きの子は矯正させられる)で、抜くのは鞘を握る左腕で構え右腕で抜く。逆に言うと、面する相手への信頼所作の場合は、刀を自分の右に置き、相手に刀を即抜かないという意思表示だと言う。なるほど合点。足運び、受け身、袈裟斬り,居抜き胴などいろんな形も知った。加えて、瞬時で勝負は決まるので、息が上がる武士はいない。それは今も剣道の試合見ればわかるし、面を付けていない真剣での申し合いでは剣さばき以前に、双方の息遣いを見ればすでに勝負が決していると言う。
そんな視点の映像、つまりカットなし(俳優の休憩なし)で、勝負がつくまでの申し合いの時代劇はいくつあるか?否、無い。息がどんなに上がっても、どんなに腕や足がふらついても、お互い何ヶ所か傷つき血があふれていても、切り殺す最後まで、人間が生き残るかどうかの生身の勝負は、映画では作れない。

 竹光の殺陣はあくまで所作・演技であり、真剣は生きるか死ぬかの武器。
人間を死に追いやる行為は、ドロドロの凄惨な修羅場でしかない。個人の戦いしかり。
これが国同士なら言わずもがなである。今、「マリウポリの20日間」観ながらそう思う。
「ムービー軌跡」
千代野基金

- CafeLog -