2025.12.15 更新
第215回 大の里の千秋楽休場
同星で優勝争いしていた大の里が九州場所千秋楽決戦の日休場した。
自らの連続優勝を自ら断念せざるを得ない悔しさ、我々素人にはわからない怪我の大きさ。
千秋楽恒例の三役そろい踏みはどうなるのかとか呑気に見ていると、その日のNHK解説者の一人が、放送中本人の無念さは無視し、「安青錦の活躍で、つまらん千秋楽が救われた」にはビックリした。「つまらん千秋楽」にしたのは大の里だと暗に言っている。又、同氏はネットで「自分なら怪我を隠して出場する」とも言い放っている。
私は、これらの発言に不愉快を通り越し恐怖さえ感じた。生放送で現役横綱を下劣な言葉で批判している。力士の体を何と考えているのか?!
土俵際での全力攻防の巨漢同士が土俵下へ落ちてくる。本人達、真下にいる控え力士はもちろん桟敷の観客も危険。何故土俵をもっと低くして、土俵周りを広くしてマット引くなり眼に見える安全策を取らないか、場所前話題になった女人禁制など数々の疑問には「伝統」の一言で片づける。数年前京都府下の巡業で力士が倒れ、緊急的に女性の看護師が土俵に上がった。その事が直後から論争となった。目の前の急病人救助で転機を利かしたのが女性と言う理由で。何とも前時代的、命より性別優先か?相撲協会は!
生命の危険までは行かずとも、そんな不備な土俵で日常繰り返される怪我への対応と寄り添わないコメント。怪我した力士に今や公傷制度はなくなり、更に2ヶ月の一度の本場所、その間地方巡業があり、この巡業も「地方の人に相撲に直接触れてもらう」と治療中の力士の参加を半ば強要する。
これでは力士はいつ治療に専念できるのか?!
「盛り上がった土俵」との興行優先、「大関が一人では…」との番付形式主義。
「盛り上がる」って何だろう?番付の形って何だろう?「相撲はただのスポーツじゃない。国技であり神事だ」とも言われる。それは力士の身の安全はどういう関係になるのか?
「怪我は誰でもしている」、「我々の現役の頃は…」と嘯く親方衆。とにかく目の前の力士の体調に心やる発言がない。本音がそうだからだろう。切磋琢磨、自己訓練、競争と言う名で厳しい稽古が合理化される。時には暴力も。
力士を守らないこの解説者、相撲協会はスポーツである相撲を商品としか見ていないし、瞬時の「盛り上げ」のための消耗品とでも思っているのか。
彼らは「熱戦だとお客さんが喜ぶ」と言う。ならばそう出来ない体で出場せざるを得ない力士たち、休めば容赦なく番付は降格する。そして満身創痍での引退に追い込まれる力士たちは枚挙にいとまない。
東横綱と言う当代一の横綱・大の里の判断を酷評した解説者、土俵上での千秋楽協会挨拶で、(その日の)大の里の休場を「遺憾」と言及した理事長。この言は、「怪我をしても優勝争いの横綱なら、その盛り上がりのため出場せよ」との同義語になる。果たして大の里ファンならず、相撲ファンがそれを望んだだろうか?答えはネットで見れる。大の里を守ったのは部屋の師匠・親方一人。この解説者と理事長は、以上の事実と疑問に答えてもらいたい。全国の相撲ファン全てに。
それとも立ち合いの変化で逃げるか?
自らの連続優勝を自ら断念せざるを得ない悔しさ、我々素人にはわからない怪我の大きさ。
千秋楽恒例の三役そろい踏みはどうなるのかとか呑気に見ていると、その日のNHK解説者の一人が、放送中本人の無念さは無視し、「安青錦の活躍で、つまらん千秋楽が救われた」にはビックリした。「つまらん千秋楽」にしたのは大の里だと暗に言っている。又、同氏はネットで「自分なら怪我を隠して出場する」とも言い放っている。
私は、これらの発言に不愉快を通り越し恐怖さえ感じた。生放送で現役横綱を下劣な言葉で批判している。力士の体を何と考えているのか?!
土俵際での全力攻防の巨漢同士が土俵下へ落ちてくる。本人達、真下にいる控え力士はもちろん桟敷の観客も危険。何故土俵をもっと低くして、土俵周りを広くしてマット引くなり眼に見える安全策を取らないか、場所前話題になった女人禁制など数々の疑問には「伝統」の一言で片づける。数年前京都府下の巡業で力士が倒れ、緊急的に女性の看護師が土俵に上がった。その事が直後から論争となった。目の前の急病人救助で転機を利かしたのが女性と言う理由で。何とも前時代的、命より性別優先か?相撲協会は!
生命の危険までは行かずとも、そんな不備な土俵で日常繰り返される怪我への対応と寄り添わないコメント。怪我した力士に今や公傷制度はなくなり、更に2ヶ月の一度の本場所、その間地方巡業があり、この巡業も「地方の人に相撲に直接触れてもらう」と治療中の力士の参加を半ば強要する。
これでは力士はいつ治療に専念できるのか?!
「盛り上がった土俵」との興行優先、「大関が一人では…」との番付形式主義。
「盛り上がる」って何だろう?番付の形って何だろう?「相撲はただのスポーツじゃない。国技であり神事だ」とも言われる。それは力士の身の安全はどういう関係になるのか?
「怪我は誰でもしている」、「我々の現役の頃は…」と嘯く親方衆。とにかく目の前の力士の体調に心やる発言がない。本音がそうだからだろう。切磋琢磨、自己訓練、競争と言う名で厳しい稽古が合理化される。時には暴力も。
力士を守らないこの解説者、相撲協会はスポーツである相撲を商品としか見ていないし、瞬時の「盛り上げ」のための消耗品とでも思っているのか。
彼らは「熱戦だとお客さんが喜ぶ」と言う。ならばそう出来ない体で出場せざるを得ない力士たち、休めば容赦なく番付は降格する。そして満身創痍での引退に追い込まれる力士たちは枚挙にいとまない。
東横綱と言う当代一の横綱・大の里の判断を酷評した解説者、土俵上での千秋楽協会挨拶で、(その日の)大の里の休場を「遺憾」と言及した理事長。この言は、「怪我をしても優勝争いの横綱なら、その盛り上がりのため出場せよ」との同義語になる。果たして大の里ファンならず、相撲ファンがそれを望んだだろうか?答えはネットで見れる。大の里を守ったのは部屋の師匠・親方一人。この解説者と理事長は、以上の事実と疑問に答えてもらいたい。全国の相撲ファン全てに。
それとも立ち合いの変化で逃げるか?




