2025.03.17 更新
第197回 映画「月光の夏」
 終戦前後の事が気になりYoutubeを見ていて,高倉健主演映画「ホタル」から、いつものように画面が飛んで映画「月光の夏」に変わった。1993年の史実に基づく懐かしい映画。
1994年神戸の旅行会社へは、「障碍者と共に平和に向かって走ろう・ホノルルマラソン」を92~95年まで4年間の企画実績を引っ提げての入社だった。(96年妻倒れて断念)それで、94年入社1年目の秋、この映画と史実を深く知り、何か企画が出来ないかと鳥栖に赴いた。対応していただいたのは地元の女性実業家のこの企画の中心メンバーで、神戸の旅行社からというより、故郷が同じ佐賀県と言う事ですぐに親近感をもっていただいた。

 終戦の1~2月前、鹿児島・知覧の特攻基地に移送される前日、音楽学校生とその友の二人は、目達原基地(現在の佐賀県・吉野ケ里)から鳥栖小学校にグランドピアノがあることを知り、死ぬ前にピアノを弾きたいと、線路伝いに20数キロを歩いて小学校まで必死の思いて訪れた。必死の思いとは基地門限は当然にしても、特攻直前にピアノを弾くためという理由は、表立って言える事ではなかった。突然の訪問に驚く女性の音楽教師、偶然あった譜面の「月光」を懸命に弾く音楽学校生と、譜面めくる友。数日後この二人は知覧から沖縄のアメリカ軍艦へ特攻。
 しかし、歴史の歯車はここから新しい展開を生み出す。
音楽学校生は、見事かどうかわからないが、沖縄の海の藻屑に。
だが、譜面をめくっていたもう一人は、機体トラブルで突撃任務果たせず、知覧基地に引き返す。特攻は敵艦めがけて突っ込むのが任務。生きて帰ることは出来ないのだ。しかし生きて帰った。卑怯者、臆病者、日本軍人の恥…。福岡にあったとされるそうした生存特攻兵の寮での陰湿な地獄の,日々。「今度は見事に死にます」「もう一度(まともな)飛行機に乗せてくれ」との叫び…。
それは8月の終戦後何年も続く。要は、戦記に記され死んだ兵士が、生きていてはいけないのだ。この映画の重い、そして特攻の裏側を描いた数少ない描写。冒頭の「ホタル」は朝鮮人特攻兵だが、この映画は特攻出来なかった兵士の苦悩の物語。私も2001年妻と訪れた知覧特攻記念館の幾多の若い特攻兵士の裏の顔だ。

 戦後50年近く、生き証人のこの音楽教師の一言から、この話は九州一帯に広がり、ついには長くこの事に口を閉ざしていた生き残った特攻兵士が、その鳥栖小学校でそのグランドピアノの前で音楽教師と再会する。「あの時の特攻兵士です…」に対し、「よく生きておられて…」映画は格好の名優二人、仲代達矢と渡辺美佐子だ。

 そうなのだ、生きていたからこそなのだ。満州開拓団、沖縄戦もしかり。生きていたからこそ史実が語られ、後世に伝えられていくのだ。

 思い出した。94年当時の佐賀県人の私の着想は、特攻兵士二人が歩いた目達原(吉野ケ里)から鳥栖小学校まで、同じ様に20キロ歩き、「月光の夏」演奏を聞くと言う、陳腐なものだったのだ。でも、戦後80年の今、かのグランドピアノは、今も鳥栖で現存している事を再確認したのは30年ぶりの成果だった。

 更に想いを巡らす。絵を描きたかった学徒の想いは、長野の無言館にあるが、音楽(ピアノ)したかった学徒の記録としては、この映画は貴重価値だ。あの時代。文化芸術は軟弱思想・非国民思想と言われていた時代である。それでも、よく記録映像で出てくる東条英機首相の雨の神宮外苑での学徒出陣式、あの幾多の学徒の中には、様々な学術文化を志していた学徒がいただろう。戦争はその全てを奪った。戦争が奪うのは人間の体、つまり物理的な肉体だけでなく、人間が持つ思想をも奪い去る。
 加えて今。支援国と思われていたアメリカ大統領から恫喝され、会談無礼の最低謝罪か筋を通すか、その態度一つに国の命運がかかるまで追い込れてまているゼレンスキー大統領。その悔しさには同情し、心中を察する。80年前も当時者でなく大国の思惑で大戦が終結したが、それが今。再現されようとしている。
2025.03.17 更新
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2025.03.17 更新
週刊現代 2月15日号(その2)
週刊現代 2月15日号週刊現代 2月15日号より

週刊現代 2月15日号『あなたの隣の「移民たち」後編』より


前号と同じ、「週刊現代」特集より。
紙面の出典資料は、「在留外国人統計」と「国勢調査」。
京都府下周辺で感じる外国人増加が、これら公の調査からも裏打ちされている。
「ムービー軌跡」
千代野基金

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