2024.07.16 更新
第181回 唐津郷土史
今春、故郷・唐津の同窓の事がふと気になって、その辺の情報に詳しい、神戸・須磨に住む同期生にTELした。その中で彼女は今夏帰省して、「墓と歌碑掃除する」と。私「カヒって歌碑…?何それ」。彼女「5~60年前、父が近所の神社に頼まれて歌碑を書いた。それは源氏物語22帖の玉鬘の中の一節らしい…」。私、「源氏物語って、今NHKの大河の…玉蔓…?」。浅薄の身にはついていけない。とは言え、当の彼女も「…どうもそうらしい…」。
その神社とやらにもTELして「玉鬘」を調べた。光源氏が左遷された菅原道真に送った歌や、玉蔓は肥前の国・唐津で生を受け、その美貌で土地の豪族からのも求婚を受け続け、其れが嫌で、早く京へ上りたいと光源氏に文を送り続けていたようだ。
へえ~、事の真相はわからないが、22帖は故郷・唐津が舞台だと言う事はわかった。
それから1ヶ月位して、京都文化博物館の一角の和紙店で、源氏物語全54帖の代表歌が色紙になっているのを見つけた。色紙と言ってもタテ40ミリ×ヨコ90ミリの横長変形で、額がない。仕方なく厚手の白紙買って、素人ながらビニール張りにした。
急いで、須磨の彼女にTEL「渡したいものがある。近日神戸で会おう」。外側を新聞紙でがんじがらめにしてJRで運んだ。出会ったJR新長田駅でその中身を告げた瞬間、彼女の驚きようはなかった。
本稿はこれが前半。まだ後半がある。これだから世の中面白い。
それから1~2週間後、ある会合で故郷の名前が姓の人を名簿で見つけた。休憩時間にその人にその事告げると、何と「長崎が実家の旦那の姓で、昔『天草の乱』で唐津藩からの重税で苦しめられ、その税で唐津の『虹の松原』の植林が進んだと聞いています。」私はその場では静かに聞いていたが、心地良くなかった。唐津の人間や我々「故郷は遠くにありで想うもの」の自慢は、昔も今も唐津曳山と日本三大松原と言われる虹ノ松原の二つだけ。その一つが当時の隣国への圧政・重税の結果と聞かされたら堪ったもんじゃない。これも、故郷の関係機関へもTELして即調べた。結果はどうも黒。重ねて上述の須磨の彼女は、父上の資料とやらを調べて、「末蘆国」(松浦国)とかの郷土史を引っ張り出して、「天草の乱と唐津藩」の項を見つけ出し、私に膨大な資料送ってきた。
御国自慢でも、史実は認めねばならぬ。
これらの話は、20歳まで故郷の時分には、全く知らなかった。小学・中学・高校のどの先生や、地元の関係者誰一人からも聞いていなかった。
ああ~、やはり「故郷は遠くにありて想うもの」なのか…?
その神社とやらにもTELして「玉鬘」を調べた。光源氏が左遷された菅原道真に送った歌や、玉蔓は肥前の国・唐津で生を受け、その美貌で土地の豪族からのも求婚を受け続け、其れが嫌で、早く京へ上りたいと光源氏に文を送り続けていたようだ。
へえ~、事の真相はわからないが、22帖は故郷・唐津が舞台だと言う事はわかった。
それから1ヶ月位して、京都文化博物館の一角の和紙店で、源氏物語全54帖の代表歌が色紙になっているのを見つけた。色紙と言ってもタテ40ミリ×ヨコ90ミリの横長変形で、額がない。仕方なく厚手の白紙買って、素人ながらビニール張りにした。
急いで、須磨の彼女にTEL「渡したいものがある。近日神戸で会おう」。外側を新聞紙でがんじがらめにしてJRで運んだ。出会ったJR新長田駅でその中身を告げた瞬間、彼女の驚きようはなかった。
本稿はこれが前半。まだ後半がある。これだから世の中面白い。
それから1~2週間後、ある会合で故郷の名前が姓の人を名簿で見つけた。休憩時間にその人にその事告げると、何と「長崎が実家の旦那の姓で、昔『天草の乱』で唐津藩からの重税で苦しめられ、その税で唐津の『虹の松原』の植林が進んだと聞いています。」私はその場では静かに聞いていたが、心地良くなかった。唐津の人間や我々「故郷は遠くにありで想うもの」の自慢は、昔も今も唐津曳山と日本三大松原と言われる虹ノ松原の二つだけ。その一つが当時の隣国への圧政・重税の結果と聞かされたら堪ったもんじゃない。これも、故郷の関係機関へもTELして即調べた。結果はどうも黒。重ねて上述の須磨の彼女は、父上の資料とやらを調べて、「末蘆国」(松浦国)とかの郷土史を引っ張り出して、「天草の乱と唐津藩」の項を見つけ出し、私に膨大な資料送ってきた。
御国自慢でも、史実は認めねばならぬ。
これらの話は、20歳まで故郷の時分には、全く知らなかった。小学・中学・高校のどの先生や、地元の関係者誰一人からも聞いていなかった。
ああ~、やはり「故郷は遠くにありて想うもの」なのか…?
2024.07.16 更新
珠洲・ムイネー

