2026.02.02 更新
「我が故郷」(会報39号より)
◇私の辿った道

善光寺後背の山から見た長野市街 その山の中、信州の、善光寺で有名な街・長野市が私の故郷です。京都も盆地ですが、私に言わせれば可愛い盆地です。長野盆地は、視界360度に標高2000メートル級の山々が、それこそ屏風のように囲み、「外界から遮っている」といった様相です。「絶対にこの閉塞した世界から出てやる」というのが大望抱く信州の青年の共通の志だったように思います。そして、三島由紀夫の『金閣寺』が気に入りだった高校生は、小説の中の通りに「大谷大学の溝口青年」になりました(註:金閣寺に火は付けていません)。
近畿地方を隈なくフィールドワーク?して充実した学生生活でしたが、就職への意識が無頓着で4回生になって少し慌て、とにかく教員になろうとしましたが、公立の試験は準備不足で敗退。ギリギリまで親戚の伝手を頼って、なんとか東京の私立女子高に非常勤講師でしたが決まり、大好きな京都を離れ東京へ。

伊豆大島から富士山を望む 非常勤講師は身分が安定しないので、20代はずっと不安に時を過ごしておりました。「これでは人生が立たない」と、一念発起し、路線を変更し福祉の道を志したところ採用されたのが、知的障害者施設職員の仕事でした。やり直したいという思いを強く持って赴任したのは、東京には違いないのですが、伊豆大島でした。平成4年のことですが彼の地は私が育った高度成長期の日本の面影が未だ残っていました。それは、何かありがたかったです。妻(東京都多摩地域出身)とは大島赴任中に結婚したのですが、食いしん坊の妻はよく、「美味しい大島」と言っていました。アシタバ、くさや、メッカリ、キンメ、べッコウ寿司…。大島ではわさびが摂れないので、青唐辛子(通称:アオトウ)を付けて刺身を食べます。独特のピリッとした味は格別です。
10数年暮らした大島と泣く泣く別れ、本土に戻って埼玉県に。仕事も高齢者福祉へ。そして、妻との死別。65歳になろうとしている時に、コロナ禍の時の苦い思いも手伝って、自然と「もう一度、京都で暮らしたい」と思うようになり(40年間、必ず年に1、2回は京都を旅行していました)、一昨年の3月に京都に舞い戻ってきて、そして、皆さんとお会いしました。
いろいろな所に住みましたが、長野と、京都と、伊豆大島は、私にとって「格別の土地」です。
◇私には故郷というものがない

岐阜城と岐阜市街 困ったのは、同じ中部地方といえども言葉の違いで、担任の先生からも笑われた。結果、京都に半世紀以上住まうが、どこの言葉でもない私自身の方言?
また、親しくなってすぐに転校で友と離れる辛さもあったが、性格からか防衛本能が働くのか、すぐに新しい環境にも慣れ友人もできた。で、いまも装う八方美人的な性格。
中学高校とサッカーに明け暮れるが、高校一年で両親から離れ下宿生活を送っていた。ひとり寂しい下宿生活を見かねたサッカー部顧問から転校を勧められ、編入試験の末、豊橋から名古屋の高校に編入学、両親と住み高校へ通うことになった。川端康成「古都」に描かれた京都に憧れた高校2年生。京都旅行のために友人と鉄工所や日雇い人夫と初めてのアルバイト。貯めたお金で、その友人と二人、京都御所や北山、貴船と足を運んだ。
京都の大学を選んで受験、これにはもう一つ理由があって、当時付き合い始めた彼女が家業の倒産で進学を諦め大阪に就職、近くに居たいという理由もあったが、早々に別れを告げられ、あえなく撃沈。さて、いくつか受験して引っかかった立命館大学で新しく始まった学生生活は、学園紛争の真っ只中。『学問の自由と大学自治を守れ』とヘルメット学生や機動隊と対峙する側にいた。そんな中で、誘われて入った底辺問題研究会。学内ではスラム街など社会の貧困や底辺の問題を学び、学外では学生セツルメント活動(以下、セツル)に出向いた。授業もそこそこに東九条のスラム街に通い、子ども会や勉強会などに取り組んだ。
そこで連れ合いを知り、付き合い始めた。彼女の告白が先だと思っているが、違うと言われるかもしれない。東京・原宿から出てきたトンボメガネのオネエちゃんは急速にセツルで自己を変革し、教職を目指した。彼女の卒業と中学教員採用を待って早々に結婚した。私はというとセツルの延長で京都市内の児童館に勤めていた。
子どもも3人授かり、次男の不登校など紆余曲折も経て、みな自立、学費や家のローンも終わった50代半ば、お互い好きなことをやろうと、彼女は中学から特別支援学校(旧大阪市立盲学校)の教壇へ、私はというと飲み屋の大将へと。
49歳で発症した乳がんは5年後にリンパへの転移、それから5年。59歳、私の58歳の誕生日の旅立ちだった。亡くなる1ヶ月前まで「子どもたちが待ってる」と腫れ上がった腕に教材を入れたスーツケースを包帯で結んで出勤した。これには近所の方々にも「奥さん大丈夫?」と心配をかけた。薬を飲ませようとしても最後まで「自分のことは自分で出来る」と頑張ったスゴい女性だった。
毎年、お盆正月には3人の子どもたちと6人の孫が我が家に集う。私には故郷というものがないかもしれないが、彼女と共に残した故郷が今ここにある。
K・Mさん
高校生の時に修学旅行で訪れた京都の街が大好きになり、歴史学専攻志望だったので、大学進学に関し東京ではなく京都の大学に絞って受験して、山から這い出して京都にやってきました。

善光寺後背の山から見た長野市街
近畿地方を隈なくフィールドワーク?して充実した学生生活でしたが、就職への意識が無頓着で4回生になって少し慌て、とにかく教員になろうとしましたが、公立の試験は準備不足で敗退。ギリギリまで親戚の伝手を頼って、なんとか東京の私立女子高に非常勤講師でしたが決まり、大好きな京都を離れ東京へ。

伊豆大島から富士山を望む
10数年暮らした大島と泣く泣く別れ、本土に戻って埼玉県に。仕事も高齢者福祉へ。そして、妻との死別。65歳になろうとしている時に、コロナ禍の時の苦い思いも手伝って、自然と「もう一度、京都で暮らしたい」と思うようになり(40年間、必ず年に1、2回は京都を旅行していました)、一昨年の3月に京都に舞い戻ってきて、そして、皆さんとお会いしました。
いろいろな所に住みましたが、長野と、京都と、伊豆大島は、私にとって「格別の土地」です。
◇私には故郷というものがない
S・Mさん
私が生まれ幼少期を過ごした岐阜市郊外が故郷と言えないこともない。岐阜市、半田市、一宮市、豊橋市、稲沢市と5つの街に住み、3つの小学校、2つの中学、2つの高校に通った転校生活。親父が転勤族だった。

岐阜城と岐阜市街
また、親しくなってすぐに転校で友と離れる辛さもあったが、性格からか防衛本能が働くのか、すぐに新しい環境にも慣れ友人もできた。で、いまも装う八方美人的な性格。
中学高校とサッカーに明け暮れるが、高校一年で両親から離れ下宿生活を送っていた。ひとり寂しい下宿生活を見かねたサッカー部顧問から転校を勧められ、編入試験の末、豊橋から名古屋の高校に編入学、両親と住み高校へ通うことになった。川端康成「古都」に描かれた京都に憧れた高校2年生。京都旅行のために友人と鉄工所や日雇い人夫と初めてのアルバイト。貯めたお金で、その友人と二人、京都御所や北山、貴船と足を運んだ。
京都の大学を選んで受験、これにはもう一つ理由があって、当時付き合い始めた彼女が家業の倒産で進学を諦め大阪に就職、近くに居たいという理由もあったが、早々に別れを告げられ、あえなく撃沈。さて、いくつか受験して引っかかった立命館大学で新しく始まった学生生活は、学園紛争の真っ只中。『学問の自由と大学自治を守れ』とヘルメット学生や機動隊と対峙する側にいた。そんな中で、誘われて入った底辺問題研究会。学内ではスラム街など社会の貧困や底辺の問題を学び、学外では学生セツルメント活動(以下、セツル)に出向いた。授業もそこそこに東九条のスラム街に通い、子ども会や勉強会などに取り組んだ。
そこで連れ合いを知り、付き合い始めた。彼女の告白が先だと思っているが、違うと言われるかもしれない。東京・原宿から出てきたトンボメガネのオネエちゃんは急速にセツルで自己を変革し、教職を目指した。彼女の卒業と中学教員採用を待って早々に結婚した。私はというとセツルの延長で京都市内の児童館に勤めていた。
子どもも3人授かり、次男の不登校など紆余曲折も経て、みな自立、学費や家のローンも終わった50代半ば、お互い好きなことをやろうと、彼女は中学から特別支援学校(旧大阪市立盲学校)の教壇へ、私はというと飲み屋の大将へと。
49歳で発症した乳がんは5年後にリンパへの転移、それから5年。59歳、私の58歳の誕生日の旅立ちだった。亡くなる1ヶ月前まで「子どもたちが待ってる」と腫れ上がった腕に教材を入れたスーツケースを包帯で結んで出勤した。これには近所の方々にも「奥さん大丈夫?」と心配をかけた。薬を飲ませようとしても最後まで「自分のことは自分で出来る」と頑張ったスゴい女性だった。
毎年、お盆正月には3人の子どもたちと6人の孫が我が家に集う。私には故郷というものがないかもしれないが、彼女と共に残した故郷が今ここにある。




