2025.05.02 更新
第200回 町内会の存亡
東寺南門前に住んで41年、何故きっちりに言えるかというと、長女が生まれたその年に引っ越してきたからだ。当時この町内会は約100世帯のほとんどが一戸建。以降空き家跡地にマンション、今や民泊一軒貸家と「隣は何する人ぞ」状態。
その町内会の三役は年齢制限での選挙、8組に分割された組の各組長は、毎年順番の交代制で回覧板、市民新聞配布をやる。これは別に大したことはない。厄介なのは前者の会三役のトップの会長。そもそも選挙と言っても、選挙する側される顔共々、名前も顔も知らない人同士、前年度三役の申し送りの選挙。「とにかく1年の任期全うした後は任す」スタイル。別にこの形はこの町内だけでなく南区、京都市ほぼ全域。
と、ここまでのイントロでおわかりだろう。どこも地域住民は年々減っている。ここへ転居してきたけど意味を感じないので町内会に入らない。会費払わない。市民新聞不要、回覧板不要と言う類だ。なので当然近隣との挨拶はじめ交流は乏しい。逆に言えば自己主張出来る住民が増えたとも言えようか。選挙で何故自分が選ばれたのか、好きでなったのではないとの居直り、面倒くさい、貧乏くじ引かされた。大体被選挙氏名は世帯主の男性だが、実際の実務は夫人に任すと言うか、押し付けるダンナが多い。押し付けられた嫁さんは堪ったものでない。夫婦不和の一因にもなる。そこに地域の衰退、つまり少子高齢化の様々な現象が被さるとどうなるか。
最近見ない独身高齢者の安否確認、子ども主体の夏の地蔵盆だが対象の子ども自身が町内に居ない。これは事実が物語っている。30数年前の地蔵盆は8月の後半(土)(日)の二日間、子供たちの賑やかな歓声が路地から聞こえていた。…だが今は、昨年聞けば保育園小学生と言う対象の子どもは4世帯(70~80世帯内)、これだけでも大変なのに、秋の区民運動会への参加も、この町内会は4~5年前から取りやめたと。更に、この区民運動会不参加町内は増えている。それは加えて昔ながらの徒競走中心の頑固一徹のプログラムにもある。徒競争って、中学高校生が走るもの。その年代がいなくて残った成年(成人)は普段の運動不足で急に走れば心臓発作を起こしそうな人ばかり。脚のもつれより以前の運動する体でない。そこに見るだけ参加の高齢者も減少、要は区民運動会も早晩今のスタイルでは無くなるだろう。いくら区の体育振興会の偉い人の声掛けがあっても。
「能登」を見なくても少子高齢化の大波は東京以外の圧倒的県、つまりこの国全体に広がり、経済の底辺を外国人に頼り、災害起これば自助努力しかない。
町内会って何の意味あるの、役員の成り手ない、近所付き合いって面倒くさいの声々が深く静かに満ち溢れている。でも「裸の王様」風で誰も表立っては言わない。
果たして町内会は役員になるのも嫌、入るのも嫌との無意味な存在か?
町内会と言う組織の是非の前に、住居ライフライン、つまり電気ガス水道などの整備は「ポツンと一軒家」じゃあるまいし、近隣との共助で成りたっている。わかりやすい一例が夜の街灯だ。近所付き合い面倒な夫婦の夜間帰宅時、自宅の周りが真っ暗では、自宅の鍵穴さえ見えず、中へ入れない。つまり、一軒家を照らす灯りが必要で、その明かりは他の家も照らす灯りなのだ。そう考えると、近隣の高齢者障碍者がいつでもどこでも座れるベンチが近くにあるか、先述の民泊ならまだ良いが、不審者グループや暴力団がいつの間にか町内に住みついたらどうなるか?災害は町内選ばず押し寄せてくる。これらには一軒家では太刀打ちできない。警察、消防、自治体には、社会的・地域的に認知された住民自治組織である町内会が唯一の窓口となってくる。
町内会三役もそう考えたら、地域貢献役として、少しはやる気出るかな?
その町内会の三役は年齢制限での選挙、8組に分割された組の各組長は、毎年順番の交代制で回覧板、市民新聞配布をやる。これは別に大したことはない。厄介なのは前者の会三役のトップの会長。そもそも選挙と言っても、選挙する側される顔共々、名前も顔も知らない人同士、前年度三役の申し送りの選挙。「とにかく1年の任期全うした後は任す」スタイル。別にこの形はこの町内だけでなく南区、京都市ほぼ全域。
と、ここまでのイントロでおわかりだろう。どこも地域住民は年々減っている。ここへ転居してきたけど意味を感じないので町内会に入らない。会費払わない。市民新聞不要、回覧板不要と言う類だ。なので当然近隣との挨拶はじめ交流は乏しい。逆に言えば自己主張出来る住民が増えたとも言えようか。選挙で何故自分が選ばれたのか、好きでなったのではないとの居直り、面倒くさい、貧乏くじ引かされた。大体被選挙氏名は世帯主の男性だが、実際の実務は夫人に任すと言うか、押し付けるダンナが多い。押し付けられた嫁さんは堪ったものでない。夫婦不和の一因にもなる。そこに地域の衰退、つまり少子高齢化の様々な現象が被さるとどうなるか。
最近見ない独身高齢者の安否確認、子ども主体の夏の地蔵盆だが対象の子ども自身が町内に居ない。これは事実が物語っている。30数年前の地蔵盆は8月の後半(土)(日)の二日間、子供たちの賑やかな歓声が路地から聞こえていた。…だが今は、昨年聞けば保育園小学生と言う対象の子どもは4世帯(70~80世帯内)、これだけでも大変なのに、秋の区民運動会への参加も、この町内会は4~5年前から取りやめたと。更に、この区民運動会不参加町内は増えている。それは加えて昔ながらの徒競走中心の頑固一徹のプログラムにもある。徒競争って、中学高校生が走るもの。その年代がいなくて残った成年(成人)は普段の運動不足で急に走れば心臓発作を起こしそうな人ばかり。脚のもつれより以前の運動する体でない。そこに見るだけ参加の高齢者も減少、要は区民運動会も早晩今のスタイルでは無くなるだろう。いくら区の体育振興会の偉い人の声掛けがあっても。
「能登」を見なくても少子高齢化の大波は東京以外の圧倒的県、つまりこの国全体に広がり、経済の底辺を外国人に頼り、災害起これば自助努力しかない。
町内会って何の意味あるの、役員の成り手ない、近所付き合いって面倒くさいの声々が深く静かに満ち溢れている。でも「裸の王様」風で誰も表立っては言わない。
果たして町内会は役員になるのも嫌、入るのも嫌との無意味な存在か?
町内会と言う組織の是非の前に、住居ライフライン、つまり電気ガス水道などの整備は「ポツンと一軒家」じゃあるまいし、近隣との共助で成りたっている。わかりやすい一例が夜の街灯だ。近所付き合い面倒な夫婦の夜間帰宅時、自宅の周りが真っ暗では、自宅の鍵穴さえ見えず、中へ入れない。つまり、一軒家を照らす灯りが必要で、その明かりは他の家も照らす灯りなのだ。そう考えると、近隣の高齢者障碍者がいつでもどこでも座れるベンチが近くにあるか、先述の民泊ならまだ良いが、不審者グループや暴力団がいつの間にか町内に住みついたらどうなるか?災害は町内選ばず押し寄せてくる。これらには一軒家では太刀打ちできない。警察、消防、自治体には、社会的・地域的に認知された住民自治組織である町内会が唯一の窓口となってくる。
町内会三役もそう考えたら、地域貢献役として、少しはやる気出るかな?

