2025.02.01 更新
ベトナム人向けミニFM局(阪神淡路大震災)
前号本文(「一人になった千代野ノート」)の想いを持ち続け、1/17、30年になる「神戸」に一日居た。
9:00に、当時火災でほぼ全焼(能登・輪島朝市通りと同じ)の長田から歩き始めた。そして昼前、神戸市立図書館資料室で地元紙(神戸新聞)をゆっくり操作した。
これらの新聞は当時自らも被災者だった神戸新聞記者の原稿を、神戸から必死の陸送で京都新聞に運び、京都新聞社で製販、印刷し、神戸へ逆配送の日々だった。
自分でマイクロフィルムをゆっくり回す。1995年3~4月の朝刊,夕刊の計61日分、結果2時間半かかった。その1枚がコレ。
1995年4月19日朝刊。
「都会の神戸だから外国人への情報支援が出来た」とは言いたくない。
能登でも何か策はないか?!と、正直焦る。
その後、JR元町(元職場)、三ノ宮の東遊園地の灯篭群へ。
一日歩いた。しかし、30年前はがれきと、目ぼしい建物が倒れたり傾きの中でどっちに歩いているのかフラフラだった記憶がある。
9:00に、当時火災でほぼ全焼(能登・輪島朝市通りと同じ)の長田から歩き始めた。そして昼前、神戸市立図書館資料室で地元紙(神戸新聞)をゆっくり操作した。
これらの新聞は当時自らも被災者だった神戸新聞記者の原稿を、神戸から必死の陸送で京都新聞に運び、京都新聞社で製販、印刷し、神戸へ逆配送の日々だった。
自分でマイクロフィルムをゆっくり回す。1995年3~4月の朝刊,夕刊の計61日分、結果2時間半かかった。その1枚がコレ。
1995年4月19日朝刊。
「都会の神戸だから外国人への情報支援が出来た」とは言いたくない。
能登でも何か策はないか?!と、正直焦る。
その後、JR元町(元職場)、三ノ宮の東遊園地の灯篭群へ。
一日歩いた。しかし、30年前はがれきと、目ぼしい建物が倒れたり傾きの中でどっちに歩いているのかフラフラだった記憶がある。

