2025.02.17 更新
男性用アオザイ
本来は左(上)の写真の20歳代の司会者の男性の様に、すらっと高級感のベトナム民族衣装のアオザイ。それを右(下)の74歳が着ると、まるで白衣のやぶ医者風。アア~、台無し。
1月26日、春節(旧正月)祝う、VYSA京都(在京都ベトナム青年学生会)パーティ会場にて。
※スマートフォンでは写真は上下に表示されます。
2025.02.01 更新
ベトナム人向けミニFM局(阪神淡路大震災)
前号本文(「一人になった千代野ノート」)の想いを持ち続け、1/17、30年になる「神戸」に一日居た。
9:00に、当時火災でほぼ全焼(能登・輪島朝市通りと同じ)の長田から歩き始めた。そして昼前、神戸市立図書館資料室で地元紙(神戸新聞)をゆっくり操作した。
これらの新聞は当時自らも被災者だった神戸新聞記者の原稿を、神戸から必死の陸送で京都新聞に運び、京都新聞社で製販、印刷し、神戸へ逆配送の日々だった。
自分でマイクロフィルムをゆっくり回す。1995年3~4月の朝刊,夕刊の計61日分、結果2時間半かかった。その1枚がコレ。
1995年4月19日朝刊。
「都会の神戸だから外国人への情報支援が出来た」とは言いたくない。
能登でも何か策はないか?!と、正直焦る。
その後、JR元町(元職場)、三ノ宮の東遊園地の灯篭群へ。
一日歩いた。しかし、30年前はがれきと、目ぼしい建物が倒れたり傾きの中でどっちに歩いているのかフラフラだった記憶がある。
9:00に、当時火災でほぼ全焼(能登・輪島朝市通りと同じ)の長田から歩き始めた。そして昼前、神戸市立図書館資料室で地元紙(神戸新聞)をゆっくり操作した。
これらの新聞は当時自らも被災者だった神戸新聞記者の原稿を、神戸から必死の陸送で京都新聞に運び、京都新聞社で製販、印刷し、神戸へ逆配送の日々だった。
自分でマイクロフィルムをゆっくり回す。1995年3~4月の朝刊,夕刊の計61日分、結果2時間半かかった。その1枚がコレ。
1995年4月19日朝刊。
「都会の神戸だから外国人への情報支援が出来た」とは言いたくない。
能登でも何か策はないか?!と、正直焦る。
その後、JR元町(元職場)、三ノ宮の東遊園地の灯篭群へ。
一日歩いた。しかし、30年前はがれきと、目ぼしい建物が倒れたり傾きの中でどっちに歩いているのかフラフラだった記憶がある。
2025.01.06 更新
北國新聞、昨年末26日付
昨年能登現地入りは2回、その間も様々にベトナム人含む外国人被災者情報を取っていたが、県内でこの中能登町と隣の七尾市が外国人との共生という点で優れている。写真の記事もそうだが、日頃から日越の文化、語学交流が防災訓練に繋がり、実被害時功を奏した事例を多く見聞した。
2024.12.16 更新
どうにもこうにも
9月の豪雨の1日前からの北國新聞を読んでいるが、2ヶ月半たって、やっと外国人被災者関連の記事。
これまで例えば、七尾では10/20,11/10と地元支援団体主催イベントに、ベトナム人が参加している。内一つは,北陸中日新聞は報道していた。
現地の人曰く「12/10までに冬支度しとかないと、能登の冬は越せない」
能登でなくても、日本の冬を苦手にしている温暖国の彼等。
現地情報がなく、もどかしさばかりが募る。
これまで例えば、七尾では10/20,11/10と地元支援団体主催イベントに、ベトナム人が参加している。内一つは,北陸中日新聞は報道していた。
現地の人曰く「12/10までに冬支度しとかないと、能登の冬は越せない」
能登でなくても、日本の冬を苦手にしている温暖国の彼等。
現地情報がなく、もどかしさばかりが募る。
2024.12.02 更新
0.3%の出会い
北國新聞の地鳴り欄と言う読者の声欄には約10通ばかり掲載され、ほぼ全部石川県の方々、私が購読始めた9/21からチェックしても、当欄に聞いても、他府県の方は1ヶ月に一人あるかないか。つまり10通×30日=300通で1通位。0.003=0.3%。
ところが、今回私の記事は10/8、冒頭の記事は10/26。それもJR京都駅から二駅の大津駅の方だろう。新聞社に無理を言い連絡が出来た。
先方もビックリされたが好意的。近々お会いする。遠い北國新聞が近い京滋の読者同士を取り持った訳だ。次号でその結果報告出来たら良いなあ~。

