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特別企画連載

             木津川あれこれ    太田 史(元建設省建設専門官)


3、木津川とオランダ人技師団


 ノンキヤリヤのデ・レーケ


 明治になって政府は、富国強兵・列強に追いつけ追い越せと外国から各分野にわたって外国人指導者を招きました。これは、教育・軍隊・造船・鉄道・河川港湾と。造船はフランス・鉄道はイギリス・河川港湾はオランダから招聘(しょうへい)しました。河川港湾の技師団の中に、デ・レーケ(J.de Rijke)言う技師がいました。日本流に言えばオランダ人技師団の中で唯一のノンキャリヤです。技師団の中には、中学校の図工教科書に出てくる「だまし絵」のEscher(エッシァー)お父さんも含まれています。
http://www.worldofescher.com/

 砂防工事優先を主張したデ・レーケ

 デ・レーケは1873年に既に来日し大阪港築港の調査に入っていたドールン(C.J.Van Doom)長工師(技師長)の招きで大阪に来て淀川の調査に入ります。調査したデ・レーケは、淀川の上流の山から流れ出る土砂対策を行なわなければと、砂防工事優先を主張します。しかし政府は殖産政策の柱である幹線交通機関の一つに位置付けた伏見大阪間の舟運優先を指示します。この舟運対策工事が「わんど」と呼ばれるたまりとなって今も残っています。天然記念物のイタセンバラが生息し、見る場所によっては松島の様にに見え全日空の機内紙に記載されてから観光地の様になっています。デ・レーケの熱意に政府も舟運対策工事に遅れること2年・砂防工事に着手します。

不動川で現場視察中のデ・レーケ真ん中の白い帽子(淀川資料館蔵)


 今は公園。デ・レーケ堰堤

 1875(明治8年)デ・レーケの指導のもと、京都府相楽郡綺田村(現在の山城町)の不動川上流に石の堰堤・柴で土を固める・柴を束ねて柵をつくる・苗木を植える各工法の試験施工を行います。デ・レーケは、当時の村人達がむやみに木を切るのを戒めたため村人達の反感を買っても、森に木があることの必要性を訴えています。当時の大蔵省小野義真土木頭(現在の国土交通省事務次官位か)に一度現地を見るようにと次の様な書簡を送っています。

 小さい木まで村人に刈り取られている実状に「二つの事実について貴殿に報告申しあげます。それによって貴殿も私も、現地においてモミ(実生の)苗木が如何に刈り取られて、現在では植生が全くなくなっているということ。また人々が今でも同じような方法で既存の植林を傷めているかということが明らかになります」土砂山一件申出(欧文)井口昌平訳としています。
 
もちろん当時、所有林を持たない村人たちが、共有林(土地は公地・木を切る権利のみ)でしか薪を取ることが出来ない村人達の怒りも理解できます。明治の始めに大規模な砂防工事が行われた場所の多くが、平城京や東大寺の建立に際し大量の木材を切り取られた所であり、そこが共有林であった事は興味深いものがあります。

 デ・レーケの先駆性とオランダ

 1872年ドールン長工師を始め河川港湾関係の技師団等10名は淀川流域を始め日本各地の河川港湾工事の指導を行いますが後から来日したムルデル(R.Mulder)を除き2年から7年程の在日ですがデ・レーケは1873年〜1903年の30年間在日しました。ムルデルも1887年には帰国しています。日本政府が欧米諸国の技術を吸収し終えたこともあったでしょうが財政的負担も大きかったと思います。当時の大臣の給与と遜色ない給料ですから。

 その中でデ・レーケが一人
30年間在日していたのは、デ・レーケの日本の河川に対する情熱とその行動だったと思います。1885年の淀川大洪水(枚方切れ)によって、全国各地を回っていたデ・レーケは再び大阪に来て洪水対策の工法指導に当たります。このデ・レーケの案は採用されずフランス留学から帰国した沖野技師の手で実施されますが、今もし淀川の洪水対策工事を行ったらデ・レーケ案になるかもわかりません。
 巨椋池を残し、川幅(堤防と堤防の間)は広く江戸時代からの堤防は最大限残す、お金は最小限にと。
 環境という言葉は使っていませんが一回目で紹介した「川の本」の感覚の淀川になっていたかも。木津川はなぜか他の大河川に比べ川幅は広いが。吉野川の第10堰も舟運のためには、撤去しなければと主張していますが、利水のための設計をするなら今の堰を主張してたかも判りません。
 
デ・レーケのことを書きながら私はオランダの大胆な公共事業政策の転換が脳裏に浮かびます。オランダは1980年代の後半、所謂オランダ病という失業率15%とも言われる大不況にさらされます。今新聞等では、仕事の分かち合い・時間短縮・就労形態等でオランダを紹介していますが公共事業政策の転換は何故かあまり紹介されていません。公共事業政策を大胆に転換し事業費を大幅に減少させています。オランダは、海より低い土地が多く絶対に海水を入れない計画(1000年確率)長期の堤防計画がされていたと聞きましたが、ある程度以上の海水上昇では浸水はやむを得ない計画に変更されているようです。現在の河川審議会の方策とある意味では似ていると思います。
 
一昨年オランダ交流400年記念事業の一環でデ・レーケ出身地の村の人達がデ・レーケのお孫さんと共に淀川資料館においでになり懇談しましたが、いかにもゲルマン民族って感じで、映画のバイキングを思い出していました。 
 今、オランダでは仕事の分かち合いをしているので、お金があまりありませんのでとコインを記念に頂きましたが、それを村の人達と笑いながら手渡すデ・レーケのお孫さん。オランダ病・失業者がものすごく多い・憂鬱という先入観をもっていた私はその明るさにびっくりしました。
 
 振り返って日本。 
 オランダはオランダのやり方でしょうが、素早く公共事業費を削減し失業者の減少に政策転換したオランダ。失業者の増大を構造改革が進んだ証と、言う指導者の言葉からなぜと自問自答しているこの頃です。


デ・レーケの淀川河口部の改修計画図(淀川資料館蔵)

沖野技師淀川改修計画案(淀川資料館蔵)





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