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特別企画連載
インド・モンゴル・韓国への旅ー1990年代前半 

大原光夫 
<筆者紹介>大原光夫さんは、浄土真宗本願寺派布教使。八幡市在住。日本宗教者平和協議会(略称 宗平協)常任理事、京都宗平協事務局長。この連載は「仏教タイムス」に連載されたものを再構成したものです。
 
 
1、インド仏陀への旅
 
(1)はじめに
「表題」に埋もれそうな感で書きはじめた。読者の皆さんには「インド、こぼれ話し」とでも読みかえていただいていて、気軽にお
付き合いいただけれぱありがたい。さて、今回は四年前から毎年、夏期講座を続けている「日本現代仏教研究会」の”現地研修 ”と銘打っての旅であります。宮坂宥勝師(真言宗智山派伝法院院長・名古屋大学名誉教授)を失礼ながらガイド役にしてしまったという、はなはだ乱暴な旅であった。 宮坂先生と私以外は初めての仏跡めぐりであったため四大仏跡を中心に行程っをくんだ。「四大仏跡」とは、 @ルンービニ−(誕生)Aブッダガヤ(成道)Bサルナ−ト(初転法輪)、Cクシナ-ガラ(涅槃)と皆さんにもおなじみの箇所です。   
 湾岸戦争開始直後の一月二十三日に出発した。ハイジャックや事故の危険率と日本の交通事故の危険率を比較すると、はるかにインド行きの方が「安全」と故事付けて空席の目立つ中、私たち総勢十四名はインドに向けて出発した。
(2)祇園精舎の鐘
 
首都ニューデリーから空路ラクノウへ、 そして祇園精舎へとおなじみの コースをとった。竹林精舎の次に旧く、スダッタ長者の寄進 によるもの。仏説阿弥陀経のはじめで「祇樹給狐独園」とされている。ところでこの精舎の近くに「日本から贈られた祇園精舎の鐘」と題した史跡?がある。なるほど「祇園精舎の鐘の音・・・」 有名な「ひびき」を想いおこす。しかし、これは少しおかしい。「鐘」の発生の地は中国であって、当時のインドには「鐘」はなかったはずである。
 もし、平家物語の冒頭をもとにして「鐘」を持ち込んだとすると、祇園精舎の「町内会」の人々はびっくりしているにちがいない。そう語り合いながら、それだけではないと感じた。 
  たしかに日本人にとっての郷愁には足りるかもしれない。だが遠路、仏跡参拝に出かけられた人々に不幸な思い込みをさせはしまいか、とあらぬ心配をしながらインドの旅が始まった。
(3)アショーカ王
 仏教にとってアショーカ王の存在は見おとせない。今回の旅は、このことをあらためて印象づけた。アショーカ王は、インド全土に八万四千(たくさんという意)の仏塔を建てたといわれている。そして、増塔された後が見られる。
 アショーカ文字の刻まれた石柱ルンビニーとサルナートにある。宮坂宥勝師の解説でこれらは一層興味深いものとなった。「即位二十年たって、自らここに来て供養した。ここで仏陀釈尊が生誕されたからである。ルンピニ−村は免税される」むねの勅文である。また、サルナートにある石柱では「仏数々団の分裂に心を痛め、仲良く共同するよう」求めた文面とな ている。アショーカ王はさらに釈尊成道の地の善覆樹を弟のマヒンダ−に託し、スリランカに伝えた。この熱い想いと実績とでも言おうか、仏教を今日に伝えたアショーカ王の歴史・的存在は、あらためて注目されるべきであろう。
(4)インドこぼれ話@ 
 「マヤホテル110号室にユウレイが出る」ガイドの仲間うちのウワサである。他に知れると、その部屋には添乗員とガイド自身が泊る羽目になる。その部屋に私が泊った。 翌日になってから、「ゆうべはどうでしたか?」と来た。どうやら興味だけは旺盛らしい。ホテルを出たところでバスの故障、しかも交換した部品が不良品だった。よくあることらしく、日本人以外は誰も腹を立てない。これでニ時間以上のロスタイムだ。この待ち時間、バルランプールの町を散策した。人力車での見学や町での買いものを楽しんだ。 60ルピー(480円)でサリーが買える。その安値にビックリする。町に馴れるに従って車夫を客席に座らせ、自分で人力車のハンドルを握る者もいた。ものめずらしそうに走る姿を見て、謎よりも珍しく思ったのはこの町の人々にこの 「おたのしみ」のツケは、あとで効いてくる。

(5)インドこぼれ話A  
 インドの旅につきものは、ハプニングと「移動」である。この日の移動時間は約十一時間の予定。途中でつまづくと、ホテル入りが確実に深夜となる。ルンビニーから折り返すころに、夕暮れを迎えた。このペースでゆくと夕食にありつけるまでには、まだ五時間近くかかる。緊張しているのは添乗員氏である。人間、腹が減ると何を言い出すやらわからないからだ。ところが、再入国中に銘々が町に出て酒やツマミを買い込んでいた。走り出したバスの中では、早々に宴会が始ったのである。「このラム酒はうまい」「いやネパールのビールも いける」と車内は盛りあがる。その中で、一人胸をなぜおろしたのは添乗員氏であったように思う。私もしっかりこの宴会に参加して、目が覚めたらバスはホテルに到着していた。「ハプニングに強い団体ですね」と添乗員氏の旨。かくして最初のハブニングは難なく通過できた。

(6)ナーランダ大学
 三つの総合大学(仏教の拠点が壊滅−インド仏教が減亡した。  
 イスラム教徒による仏教破壊の手はインド全土に及び、それは約500年間もつづいた。そして1203年ナーランダ大学の破壊をもって終結した。6ヵ月間燃えつづけたという。竜樹・玄奘三蔵など仏教史上に名を残す名僧・学者のほとんどが、ここで学んだ。「僧徒一万」 「大唐西域記」)と記されたこの大学は、800年の歴史を閉じることになった。
 ところで、イスラム教徒の破壊の手が何故ナーランダ大学に及んだのか?
 仏教破壊の他にもう一つの理由がある。それは他の仏教施設と同様、ナーランダ大学には莫大な量の金銀財宝が蓄積されていたからだ。寄進による金品である。これこそが彼らの狙いどころであった。
 宗教上の争いとは異なった次元でインド仏教の滅亡がおとずれた歴史的事実に、仏教者としての言葉は少なかった。

(7)仏舎利

 ガンジス川にかかる全長八キロメートルの橋を東に渡り切るとヴァイシャリに入る。観無量寿経にあるイダイケ夫人の生まれ故郷だ。玄奘三威は「茂遮」 (バナナ)の名産地であると書き残こしている。  
 たしかに見わたすかぎりバナナの林がつづく。この光景は玄奘の訪れた千三百年余り昔と、どれほどのちがいがあるだろうか。ヴァイシャリ城跡のすぐ近くに粗末なドームで覆れた遺跡がある。
 大般涅槃経で云われる、 八等分された仏舎利の一つが納められた地点である。発掘に手がつけられただけという状態である。アショーカ王の建てた塔に龍樹・世親がそれぞれ三世紀 、五世紀に増塔した。その跡が三層になっているのが鮮明にわかる。
  宮坂宥勝師に「先生、ここ 掘ったらほんまに仏舎利 出てくるんですか」と聞くと「ハイ」。 一行は、「えらいところに来た」と 思わず身をのり出した。

(8)べナレス(バナラシ)   
 ヒンズー教最大の聖地べナレスは、釈尊が成道の後最初に足を踏み入れた地である。ブッダガヤからは歩いて約十日と伝えられる。  
 釈尊は何故至近距離にあった王舎城に足を向けなかったのだろうか?宮坂宥勝師の考えによると「古い宗教都市としてあらゆる宗教家が集っているところであったためであろう」としている。「鉛筆のコケた方の道」呟いた者もあったが、そうではないことはたしかで
ある。さて、ベナレスの北側が有名なサルナ−トである。初転法輪・最初の仏数々団成立の地である。ガイドとの会話でサンガ(僧伽)の話しが出た。「サンガ」は僧侶集団の専売特許になっている。 しかし、本来は同業組合、共和国を指すものであり広くは「目的を同じくする者の集り」を云うそうだ。「ドロボウのあつまりもサンガ、ヨ」と、仏教徒ではないガイドの言葉に絶句するより他はなかった。


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